鈴木伸治の徒然記

永年の牧師、園長を隠退し、思い出と共に現況を綴ります

日ごと照降無 ( 正しい者にも正しくない者にも )

 
 今日も良いお天気です。やはりお天気であれば、それなりに庭仕事や外の仕事もできます。しかし、雨であればそれなりに一日を過ごすのです。「日ごと照降無(てりふりなし)」とは雨が降っても天気でも関係ないことを示す言葉です。要するに晴れても雨でも構わないということですが、これは大声で言うべき言葉ではなく、小さな声での気持ちの吐露にしておきましょう。雨では困る人々がおります。外の仕事をする人達です。建設現場で働く人たち、それに伴うガードマンの人たち、その他の人たちです。雨であれば仕事ができなく、多くの場合、日給制であれば収入が少なくなるからです。やはり雨が降らないように祈る日々であるでしょう。
 いつも天候を気にしていた時代、それは幼稚園の園長であった頃です。運動会、遠足、バザー、一日動物村、野外散策等、外の行事の前日は、雨のバージョンも考えられていますが、天気であることを願っています。天候があやしい時、朝6時に判断します。決行するか延期にするかの判断をしなければなりません。明らかに朝から快晴であれば連絡網はまわしませんが、雨模様なので延期にする場合、6時30分に教職員に連絡し、それから教職員が保護者に連絡します。その場合、コールバックがあるので、職員室で待機していなければなりません。やがてバックテレフォンが鳴り続けます。ある日、天候の判断が難しいときがありました。運動会の日でした。テレビの天気予報もどう判断して良いか迷う予報です。決断し決行することになりました。開会時は濃い雲が垂れこめていましたが雨は降っていません。それで楽しい運動会が始まったのです。プログラムをいくつか消化した時、雨がポツリポツリ降ってきました。でも開催できない降雨ではありません。しかし、この先もっと降ることを考慮し、プログラムをはしょり、または飛ばしてしまいました。閉会を1時間も早めたのです。終わりの頃は雨が降り、運動会どころではありませんでした。後日、いっそ延期にしてほしかったと保護者の声があり、判断の難しさをしみじみと示されたのでした。
 「照降無」は天候に関わりますが、状況の変化に影響されないことでもあります。日本基督教団の書記を8年間担いました。10月26日から28日に掛けて日本基督教団総会が開催され、ようやく書記の任を終えることができました。この8年間、教団三役として歩んでまいりましたが、山北宣久議長は日本基督教団を教憲・教規に基づき、正しい聖礼典の執行を呼び掛け、終結させたことは画期的な働きでありました。そのために議論が沸騰し、4年前の教団総会では冒頭から混乱しました。2時間30分も遅れて開会したのであります。また、今回の開会時も混乱がありました。問題を感じる人々が議長席に詰め寄ってきました。議長、副議長が詰め寄る人々の対応をしていましたが、書記として議長席で職務を続けていたのであります。新しい書記が選任されたので退任する私に、新しい議長が感謝の言葉を述べてくれました。「鈴木書記は、たとえ議場が混乱しようとも悠然として書記に徹しておられた。その姿勢を学ばせていただいた」と述べて下さったのであります。
 状況の変化に影響されないことは、確かに必要ですが、ものごとの推移に一喜一憂することも、人間として大切なことなのであります。自分自身、状況変化に動揺しない姿勢に、問いかけています。そうなると明日の天気を気にして、気象情報ばかりテレビで見ていた頃が懐かしいです。とはいえ、力士の白鵬の連勝記録を気にしていたし、野球が始まれば読売ジャイアンツの勝ち負けにこだわったりするのです。照降無と言っても毎日の生活において、いろいろと心を動かしながら生活しているのです。
 さて、今日も良い天気でしたが、明日はどうなのかな。スミさん情報によると、明日から天気が悪くなるということでした。雨が降ってもお天気でも神様のお恵みであるのです。
<聖書の言葉>
神様は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。
(マタイによる福音書5章45節)