鈴木伸治の徒然記

永年の牧師、園長を隠退し、思い出と共に現況を綴ります

隠退牧師の徒然記<440>

隠退牧師の徒然記(2016年3月1日〜)<440>
2017年5月27日「緑と花と、鳥の声を喜びつつ」



聖書の言葉
なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意してみなさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか。
(マタイによる福音書6章28-30節)



早いもので5月も終わりとなり、来週は6月の歩みとなる。この時期は、何といっても新緑の美しさであり、花の香りである。毎朝のテレビは、各地に咲く花の便りを報道してくれている。ばら園、牡丹園、チューリップ園等、その他、聞きなれない花の園も紹介される。梅雨時ともなれば、アジサイの花がきれいなのであろう。3月末から4月の始めにかけて、我が家の庭には源平桃が賑やかに咲いてくれる。いろいろな思いを交差させながら鑑賞したものである。その源平桃も新緑の季節となり、小さな実をつけている。
その後、我が家の庭には「テッセン」の花が咲く。数年前、庭の整理をしているうちにも、そのテッセンの蔓を切ってしまい、連れ合いのスミさんからいたく叱られたものである。しかし、その後、また蔓が伸びてきて白い大きな花を咲かせている。切ってしまったのは紫の花の蔓である。紫のテッセンは、スミさんが別の場所で育て、小さいながら可憐に咲いている。今は、神経を使っているのはランの花である。昨年、9月に車を購入するため、横浜のランドマークタワーの近くにある車屋さんに行く。その近くのビルの中にあるレストランで食事をしたのであるが、そのビルの中にある花屋さんが、もはや咲いていないランを店先に並べていたのである。その花が咲いていないランを買い求め、今まで面倒を見てきた。それがつぼみを持ち、今では順次花が開いているのである。それはそれは丁寧に扱われており、腫れ物に触る様にしている。
アブチロンもまた庭に咲いている。この花は、赤い花で、私は「ペンテコステ」と名付けているのであるが、結構、その名前で呼んでいる人もいる。この花はかなり長い間咲いており、聖霊の導きなるものを示されるのであった。そのうち紫陽花も咲くことであろう。庭にはミカン、柚子の木もあり、柚子は毎年鈴なりになる。しかし、ミカンは幾つか実を着けたが、これからの楽しみとなっている。これからの楽しみはぶどうの木である。娘の星子がぶどうの苗を持ってきてくれたのである。それが根付いて、結構蔓が伸びてきている。いつの日か、ぶどう棚を作って、鈴なりのぶどうを収穫する、そのときまで健在でいればよいのだが。
こうして草花を楽しみつつ過ごしているが、小鳥たちの声も楽しみにしている。最近は鶯の鳴き声を聞くようになった。まだ、ちゃんとは鳴けないようであるが、そのうち一日中鳴くようになる。チョットコイと称しているが朝鮮雉の鳴き声も、少しばかりうるさいのであるが、楽しみに聞いている。鳴かないと思っていたリスも、結構奇妙な音声で鳴いている。我が家の前の電線はリスの通り道であり、いつも二階のベランダで目線の高さで見ているのである。
こうして新緑、花園、鳥の声を、我が家に居ながらにして味わうことができ、隠退生活を喜んでいる次第である。花鳥風月を楽しむ老人になっているようであるが、半分は現役としての務めがある。横浜本牧教会付属の早苗幼稚園の園長を担っているが、毎日の執務は堪えるので、月・水・金の三日間の勤務である。そして、日曜日には礼拝があり、説教や週報の準備があり、呑気に過ごしながらも、結構忙しく過ごしている。
今回は花鳥風月を楽しむ老人の心境を綴ったが、まだ元気に過ごしていることを書き残しておきたかったのである。



庭に咲くテッセン。



アブチロンペンテコステと称している。




白いばらの花。



大事に育てているランの花。