鈴木伸治の徒然記

永年の牧師、園長を隠退し、思い出と共に現況を綴ります

隠退牧師の徒然記<425>

隠退牧師の徒然記(2016年3月1日〜)<425>
2016年11月15日「ぬくもりを喜びつつ」



聖書の言葉
ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。
(コリントの信徒への手紙<二>4章7節)



今はロボット産業が盛んで、結局、何かとロボットのお世話になっている。洗濯機にしても、便利な機会が開発されたと思っているうちにも乾燥機が開発される。もうそれで着ることができるのである。さらに先日のテレビで紹介していたが、洗濯物を折りたたんでくれるものまで紹介されていた。たらいに水を入れて、ぎざぎざの付いた洗濯板で洗い、手で絞って、皺をのばしながら竿に干す、そんなことは大昔のことになっている。しかし、なんとなくそういう作業が懐かしくもある。我が家には洗濯機はあっても乾燥機なるものはない。洗濯が終わると、連れあいのスミさんは、パンパンと濡れた洗濯物を叩きながら、皺をのばしている。そして、一つずつ丁寧に竿に干すのである。その頃、私は書斎で何やらしながら過ごしているのであるが、階下で呼ぶ声がする。洗濯物を干すための下準備ができたと言うわけである。洗濯籠を持って二階に上がるのは、腰を痛めているスミさんにとっては大変なので、私が取りに行き、洗濯干し場のベランダに持っていく。そこでまたスミさんはパンパンと洗濯物をのばしながら干すのであった。ロボット開発のテレビを見ながら、このような昔ながらの作業が次第に消えていくこと、残念なことだと思いつつ、いろいろな開発に目を見張るのであった。
人間と対話してくれるロボットが現れている。「お腹すいた」とロボットに話しかけると、「今日は、何を食べたいの」なんて声が帰って来る。「退屈だよ」なんて言うと、「少し散歩してきなさいよ」なんて言うのである。あらゆる言葉に対する、反応をコンピューターに記憶させてあるので、結構、細かいことまで反応してくれるのである。このロボットは、高齢者には喜ばれているという。お人形さんを脇に置いていれば、いろいろと話しかけてもくれる。一人で過ごす高齢者には格好のお友達であるそうだ。六浦谷間の集会に出席されていた小澤八重子さんも、いつもミコちゃん人形と一緒であった。ミコちゃんがいろいろと話しかけてくれるのである。やはり誰かが話しかけてくれる、気持ちが動くのである。お人形さんであることが分っていながら、喜ぶことができるのである。そのうち、私もお人形を脇にすることになるのであろう。その場合、特殊なお人形にしてもらおうか。「説教の準備は出来たの」、「週報を作ったの」、「お祈りしているの」なんて言ってくれたら、いつも現実に戻されるのではないか。
今は何事もコンピューターが人間の相手をしてくれるので、たえず画面の案内、あるいは音声に従わなければならない。もう自己流という言葉は通用しなくなっているのである。しかし、そういう社会になりつつも、基本は人間のぬくもりである。洗濯物を機械でたたまれても、どんなにうまくたたまれているにしても、やはり誰かさんがたたんでくれたものを着るのは喜びなのだ。我が家では、何かと連れ合いのスミさんが繕い物をしてくれている。夏の間、半袖シャツを着るのであるが、最近は新しいシャツを求めないので、昔から着ているシャツで過ごしている。もう何年も着ていれば、やはりすり切れてくることになる。もうこんな状態なので捨てようか、なんて思っていたら、すり切れたシャツを繕ってくれたのである。明らかにつくろってあることが分るシャツであるが、なんか、ありがたくて捨てる気にもならない。捨てようなんて思ったことを後悔しているのである。たとえつぎはぎだらけでも、そこにはぬくもりがあるのである。どんなにコンピューターが開発されても、人間のぬくもりには勝てない。言葉かけも、本当はお人形さんではなく、誰かさんの声掛けが嬉しいのである。まあ、今の社会、コンピューターの世話にならなければならないのであるが、基本は人間のぬくもりなのである。
下着のシャツは、喜んで着ているが、つぎはぎのスーツは、ちょっと気が引けて着ないのであるが。



洗濯干し場は二階のベランダにある。



結構広く、たくさん洗濯物が干せる。



つぎはぎであっても、ぬくもりを感じる下着のシャツ。



小澤さんのミコちゃんのお話しが懐かしく聞こえてくる。