鈴木伸治の徒然記

永年の牧師、園長を隠退し、思い出と共に現況を綴ります

隠退牧師の徒然記<426>

隠退牧師の徒然記(2016年3月1日〜)<426>
2016年11月26日「日々、感謝を重ね」



聖書の言葉
神は過ぎ去った時代には、すべての国の人が思い思いの道を行くままにしておかれました。しかし、神は御自分のことを証ししないでおられたわけではありません。恵みをくださり、天からの雨を降らせて実りの季節を与え、食物を施して、あなたがたの心を喜びで満たしてくださっているのです。
使徒言行録14章17節)


11月も終わりを迎えており、次週の27日はアドヴェントを迎える。クリスマスの喜びを持ちつつ歩むのであるが、その前に、11月のお恵みの感謝をしなければならない。前週の11月20日は収穫感謝、謝恩日を覚えての礼拝であった。説教でもそれらを示されながら御言葉をいただいたのである。10月から園長に就任している早苗幼稚園では11月24日に収穫感謝礼拝をささげた。園児たちが持参した果物や野菜を聖壇に飾り、神様のお恵みを感謝する。そして翌日の25日は収穫感謝会食を行う。会食は園児の皆さんも準備を行うのである。年長組はカレーライス、年中組はシュウマイ、年少組はデザート作りである。登園するやそれらの作業が開始され、子どもたちはエプロン姿を喜びながら野菜や果物に挑戦するのであった。その日の昼食は白いご飯だけ持参し、みんなで作ったお料理を感謝しつついただくのであった。
大塚平安教会在任中の収穫感謝礼拝を思い出していた。幼稚園の収穫感謝礼拝でのささげものは、やはり収穫感謝会食でいただいた他は、教会と関係する綾瀬ホームとさがみ野ホームにお届けしていた。教会でのささげものは、普段礼拝には出席できない皆さんを訪問してお届けするのであった。牧師として、また教会の皆さんも喜びつつ訪問するのであった。収穫感謝に関わるいろいろな思い出がよみがえり、感謝の思いが倍増する。普段、何気なくいただく食べ物であるが、収穫感謝礼拝を通して、改めて感謝の生活へと導かれるのである。
本来なら、今頃はハヤトウリの収穫の季節であり、今日は何個取れたといっては喜んでいた。ところが今年は収穫のないことになっている。夏の頃、庭一面にハヤトウリが蔓延してしまい、整理することにしたのである。整理するのは葉の部分のつもりが、結局、根元から切ってしまい、すべてが駄目になってしまう。いつも連れ合いのスミさんから、愚痴を言われているのであるが。収穫はリビングにおかれている両親の写真の前に飾っていたのである。ハヤトウリの収穫はないが、細い胡瓜やナスなどの収穫がある。また、庭にはミカンや柚子等が実をつけている。ミカンは2、3年前に苗木を植えたのであるが、今年は5、6個の実をつける。しかし、一つを残して、他は地に落ちてしまった。一つだけ残ったミカンを取るのは、なんかかわいそうで、そのままにしているのである。柚子は毎年たくさんの収穫となっている。いろいろな果物が庭から取れること、楽しみである。以前、両親が健在の頃、庭には大きな梅の木があり、梅の収穫を喜んでいた。収穫するや梅干し作り、梅酒作りを喜びつつしていた。両親がいなくなっても、作業の喜びが残っていた。しかし、その梅の木もかなり老木になり、家を建て替えるときに、残念ながら切り倒したのである。父が育てた源平桃の花は、毎年春になると賑わいを見せている。娘の羊子も、この木を示されながら、「源平桃」と題して作曲しており、皆さんの感銘をいただいている。ただ、源平桃の実を食べることができないので残念でもある。
我が家の庭からいろいろな収穫があること、誠に感謝である。ミョウガも結構採れる。先日の9月に羊子がバルセロナから一時帰国したが、あちらにはないミョウガを楽しんで食べていた。そのミョウガを採るために庭を這いつくばって探し回ったのであるが。娘の星子がぶどうの木の苗を庭に植えてくれた。そのうち大きくなってぶどうの収穫があるのだろう。栗の木も植えてあるのだが、収穫まで3年は待つことになる。後の時代にミカンが鈴なりに実り、ぶどう棚からも多くの実を喜ぶ、その様になればと願っている。




一つだけ実をつけているミカン。



こちらはたくさん実をつけている柚子。



ベランダ越しに見る紅葉。