鈴木伸治の徒然記

永年の牧師、園長を隠退し、思い出と共に現況を綴ります

隠退牧師の徒然記<419>

隠退牧師の徒然記(2016年3月1日〜)<419>
2016年8月24日「もう少し働けと… 2 」



聖書の言葉
モーセは死んだとき120歳であったが、目はかすまず、活力も失せていなかった。ヌンの子ヨシュアは知恵に満ちていた。モーセが彼の上に手を置いたからである。イスラエルの人々は彼に聞き従い、主がモーセに命じられたとおり行った。
申命記34章7-9節)



前回は天皇と関連して、私自身の生前退位を考えさせられた。隠退牧師になっても、今までは横須賀上町教会に月に一度は赴き、礼拝説教と聖餐式を担当してきた。その横須賀上町教会は、同教会の伝道師が牧師になったことで、7月の講壇を担当させていただいたことを最後として、今後は赴かなくても良いことになった。しかし、三崎教会には隔月であるがお招きをいただいており、喜んで赴いている。三崎教会には、牧師になって最初の青山教会時代の方が出席されており、その方とのお交わりを楽しみにしているのである。更に三崎教会には青年の頃まで出席していた清水ヶ丘教会時代の方もおられ、懐かしい皆さんとのお交わりを感謝しているのである。三崎教会まで、我が家から車で1時間くらいであるが、皆さんとのお交わりと共に、三崎の風物を楽しむことができる。何よりもおいしいマグロのお寿司をいただくことができるし、沿道には農家の皆さんが野菜等を売っているので、それらを覗くのも楽しみになっているのである。
横須賀上町教会のお務めは7月で終わったが、8月21日には野毛山キリストの教会の礼拝説教に招かれたのであった。同教会牧師の奈良昌人先生とは「神の庭・サンフォーレを支える会」を共に担っているのである。去る6月14日に「支える会」の総会が秦野で開催された。その時、奈良先生から野毛山キリストの教会の礼拝説教のお招きをいただいたのであった。喜んでお受けしたのであった。野毛山キリストの教会は、もうずい随分以前から存知あげている。今の奈良先生の前任牧師は金児栄治先生であり、教派が異なるので教会としてのお交わりがなかったが、同教会には幼稚園があり、むしろ園長としてのお交わりを持っていたのである。そのため何回か同教会の幼稚園をお訪ねしたことがある。金児先生は幼稚園関係でも力強くお働きで、神奈川における幼稚園関係の中心的なお働きをしていたのである。金児先生とは親しくお交わりをいただいたのであるが、神学校は私の方が早く卒業しているので、いつも私が「先輩」と称していた。ところが金児先生は私が卒業した神奈川県立商工高等学校を卒業すること、私より数年は先なのである。私が神学校の先輩と主張すれば、金児先生は高校の先輩と主張する。いつも顔を合わせれば、先輩を主張しあう間柄でもあった。その金児先生は少しくお身体を損ねたので、奈良昌人牧師に教会と幼稚園を託したのであった。しかし、金児先生は今でも野毛山キリストの教会の牧師でもある。8月21日に野毛山キリストの教会に赴いたとき、久しぶりに金児栄治先生とお会いし、懐かしくお話しをしたのであった。野毛山キリストの教会は、以前、私が存知あげている会堂を新しく建てかえている。行き届いた教会の佇まいに感心させられたのであった。
野毛山キリストの教会は今回だけであるが、三崎教会には隔月に赴くし、通常は六浦谷間の集会を続けることになっている。横須賀上町教会の職務が終わり、一つのお勤めが終わったと思っていたが、10月からは某幼稚園の園長に就任することになっている。今は某幼稚園としておくが、10月になったらその幼稚園を明らかにするつもりである。園長であるから、常に赴くことになる。しかし、そんなに長くは務める必要がなく、いずれは正式に就任する牧師と園長の繋ぎの意味なのである。その教会の牧師が9月で退任することになり、その後は代務者を立てて歩むことになるが、就任する予定の代務者は幼稚園までは担えないと言われるので、私が担うことになったのである。
もう少し働きなさいと、神様のお申しつけのようで、生前退位を見込んでいるのであるが、お請けしたのであった。モーセが後継者のヨシュアに務めを引き継いだとき120歳であったという。そのときも「目はかすまず、活力も失せてはいなかったと」と言われている。私の場合、それまでは40年もあるのだが…。



三崎教会の佇まい。



三崎の沿道には農家が野菜を売っている。覗いてみるのが楽しくて。



野毛山キリストの教会の佇まい。



久しぶりに金児先生とお会いする。