鈴木伸治の徒然記

永年の牧師、園長を隠退し、思い出と共に現況を綴ります

隠退牧師の徒然記<377>

隠退牧師の徒然記(2015年2月11日〜)<377>
2015年9月29日「ここにも教会があり…」


聖書の言葉
わたしたちには、食べたり、飲んだりする権利が全くないのですか。わたしたちには、他の使徒たちや主の兄弟たちやケファのように、信者である妻を連れて歩く権利がないのですか。あるいは、わたしとバルナバだけには、生活の資を得るための仕事をしなくてもよいという権利がないのですか。そもそも、いったいだれが自費で戦争に行きますか。(パウロの手紙より)
(コリントの信徒への手紙<一>9章4-7節)


三崎教会のお招きをいただき、隔月くらいに礼拝説教の御用をさせていただいている。9月16日のブログでは、三崎教会と関わるようになったこととして、「失礼ながら、こんなところにも教会があるという感想である」と記している。まさに失礼なことを記していると思う。キリスト教の教会は各地に建てられているが、必ずしも目立つところに建てられている訳ではない。探さないと分らないような教会もあるのである。しかし、その様な教会にも多くの人々が導かれ、十字架のお導きを与えられているのである。だから、教会は道路に面しているべきであるとか、高台にあって人々の目にとまる場所にあるべきだとの提言は無用なのである。
1952年(昭和28年)、東京教区の伝道委員会の決定により、農魚村センターとして、三浦半島伝道圏伝道の構想で三浦三崎を拠点として選ばれる。三崎教会はその2年後の1954年に創立されている。今年で61年にもなるのである。そして生野隆彦牧師が三崎教会に招聘されるのは1966年であった。以来、三浦半島の伝道を推進される。生野牧師は伝道の一環として幼児の保育事業にも力を入れ、さらに高齢者支援にも力を注ぐ。そして、前回記したが刑務所の教誨師として更生活動においても働かれておられる。昔は、多くの場合であるが、教会は幼稚園や保育園を運営して伝道を推進した教会が多い。それは幼児教育や保育の社会的ニードがあり、教会は社会の求めに応えたことでもある。しかし、教会は幼児施設を運営しながら維持してきたことも確かなのである。昔、多くの教会は、伝道開始間もない頃、教会には人が集まらない。信者が増えなければ牧師の生活費が窮するのである。それで牧師の生活費を賄う意味でも幼児施設を運営したことは事実でもある。宮城県の陸前古川教会の牧師を務めながら、登米教会の牧師をも務める。この教会にも幼稚園があり、幼稚園がなければ牧師の生活を支えられないのである。そのために幼稚園の運営を万全にするために、宗教法人立から学校法人立に切り替えたのであった。そういう働きをしてきている。今でも地方の教会は幼稚園と一体となって、伝道を推進しているのである。しかし、特に都会においては、教会は信者も増え、始まりにおいては幼稚園と一体となって歩んできたが、今は教会独自に歩めるようになっている。
三崎教会も始まりにおいては保育園と共に一体となって歩んできた。しかし、今や教会は独自に歩んでいる。長年、教会と保育園を担ってきた三崎教会の生野隆彦先生は、ご自分は保育園に専念し、教会は保育園に関係なく、牧会に専念する牧師を招聘することになる。新しく若手の牧師を招聘する。しかし、その牧師は2年で退任されたのである。折角新しい体制で取り組んだのであるが、この時、教会の皆さんが主体的に教会を担う決意をされるのである。だから、新しい牧師を招聘するのではなく、教会員が主体的に関わり、教会のいろいろな取り組みを担うようになったのである。生野牧師は代務者として関係しているが、もはや以前のように牧師により頼みつつではなく、みんなで力を結集するようになったのである。そのために礼拝説教は、数人の牧師を招いてささげるようになり、その一人に私が加えられたのであった。
三崎教会の取り組みを示されながら、自分自身の歩みを示されている。大塚平安教会には30年6ヶ月間、牧師として歩んだが、ドレーパー記念幼稚園の園長、学校法人大塚平安学園理事長も合わせて担って歩んだのである。三つの重い役目をよくも担ったかと思う。園長も理事長も名誉職ではなく、実務が伴っていた。時々、この体制は大変であると指摘されていたが、教会と幼稚園との間に合意事項が結ばれているので、大変であるから止めましょうと言うわけにはいかない。ドレーパー記念幼稚園は宗教法人大塚平安教会の付属幼稚園であった。この宗教法人立の幼稚園を学校法人立に切り替えたのである。その頃、やはり宗教法人から学校法人に切り替えた教会幼稚園が、学校法人に移行したことで教会から分離してしまったケースがいくつかあった。それで教会と幼稚園が分離しないために、学校法人に移行するにあたり、「幼稚園の園長、設置者の学校法人理事長は大塚平安教会の牧師でなければならない」と言う合意事項を取り交わしたのである。ドレーパー記念幼稚園が学校法人に移行したのは1977年である。私が大塚平安教会の牧師、ドレーパー記念幼稚園の園長そして理事長に就任するのは1979年である。従って、新しい体制の教会と幼稚園の組織をはじめから、いわば黙々と担ってきたのである。そして、いよいよ自らの退任が見えてきた頃、教会と幼稚園で固く結ばれている合意事項を解くよう提案したのであった。はっきり言えば、牧師、園長、理事長を一人で担うのは至難の業である。その至難の業を30年間担ったのである。拍手喝采を自らに贈っている。



2012年7月29日が第一回の礼拝であるが、その礼拝堂。



三崎教会での第一回の礼拝説教。



礼拝後、生野隆彦先生と歓談する。



礼拝後、青山教会時代の山田満枝さんがお住いの高齢者マンションを訪問する。