鈴木伸治の徒然記

永年の牧師、園長を隠退し、思い出と共に現況を綴ります

隠退牧師の徒然記<365>

隠退牧師の徒然記(2015年2月11日〜)<365>
2015年8月17日「今が将来の参考となり」


聖書の言葉
ケンクレアイの教会の奉仕者でもある、わたしたちの姉妹フェベを紹介します。どうか、聖なる者たちにふさわしく、また、主に結ばれている者らしく彼女を迎え入れ、あなたがたの助けを必要とするなら、どんなことでも助けてあげてください。
(ローマの信徒への手紙16章1-2節)


このところ昔を回顧しながらブログを記している。昔の回顧は今までも何かにつけて記しているのである。しかし、このところ、暇に任せて昔の写真を整理しているので、写真を紹介したくてブログを重ねているということである。宮城県の陸前古川教会時代を8回、登米教会時代を1回、青山教会時代を3回記している。まだいろいろと紹介したい写真があるが、この辺でとどめることにする。昔を遡れば信仰の成長が導かれた清水ヶ丘教会時代がある。しかし、清水ヶ丘教会時代は出身教会だけに、何かと記している。大塚平安教会についても現役時代から記しているので、もはやあまり書くことがない。しかし、写真を紹介したいと思うが、もはや幻の会堂になっているので、書くことの意味がなくなっているのである。大塚平安教会を退任してから、半年間であるが横浜本牧教会の務めがあるので、既に記してはいるが、写真を見ながら記しておきたいと思っている。青山教会が伝道者として最初の教会であるが、その前の、神学生時代を思い起こしておきたいのである。神学生時代としては出身の清水ヶ丘教会、川崎教会、曙教会である。そのうち清水ヶ丘教会や川崎教会に神学生として出席したが、ほとんど写真が残されていない。どこかにうずもれているのであろうが、整理している写真の中にはないのである。それに対して曙教会は結構写真が残されており、アルバムとして残されている。思い出が残されていることを喜んでいる。
神学校に入学し、神学生となると、出身の教会から他の教会に出席するようになる。そのことを奉仕教会と称している。将来、牧師になるために出身教会ではなく、他の教会に出席しながら、牧師としての働きを学ぶのである。私の場合は清水ヶ丘教会が出身教会である。神学校に入学してから最初の一年生の時はそのまま出身教会を奉仕教会としていた。しかし、二年生になってからは川崎教会を奉仕教会として出席するようになる。いろいろな思い出があるが、写真がないので、報告しないことにする。川崎教会には二年間出席し、その後は、いろいろな教会に出席して学びたいと思った。そのため奉仕教会を定めないで、毎週、いろいろな教会に出席するようになったのである。神学生であれば、当然教会学校の働きをする。どこの教会学校も午前9時には始まるので、神学生たちは8時前にはそれぞれの教会へ向かうのである。奉仕教会を決めてないので、礼拝の開会に間に合えば良いので、日曜日の朝はゆっくりと、洗濯をして干す時間もあった。そこを舎監の新屋徳治教授の夫人に見られてしまうのである。「奉仕教会を決めていなければ、うちの教会を手伝ってちょうだい」と言われる。新屋先生夫妻は西荻窪にある曙教会の牧師である。その曙教会を奉仕教会として出席するようになるのである。その曙教会は旧約学者の手塚儀一郎先生が開拓伝道で開いた教会である。その手塚先生が高齢となり、新屋先生が牧師として務める様になっているのである。教会と言っても、普通の家の応接間を礼拝堂にしているのである。昔の家は同じ屋根続きでも、応接間として造られている家がある。従って、同じ屋根の下でも、別の家にいるような気持ちになる。その応接間はソファーや椅子を置いての礼拝である。ここでも礼拝前は教会学校が開かれている。1時間、子供たちと接し、応接間を出ると庭は芝生になっているので、そこで子供たちと戯れて遊ぶのである。礼拝はソファーに座ると、つい居眠りが出てしまうのであった。子どもたちは少なかったが、毎週楽しく触れ合いつつ過ごしたのであった。
曙教会に出席しているうちにも、手塚儀一郎先生が召天される。その葬儀の時、神学生であるが、私が弔電を読むことになったのである。神学校の授業の時、葬儀に列席した先生たちから、「弔電披露をご苦労様」と言われたものである。旧約学者として著名な先生であったので、キリスト教界の多く人々が列席されたのである。この曙教会では、一人の神学生として過ごしたのであるが、他に若者がいなかったので、子どもたちの喜ぶような遊びを導いたり、ゲームの指導をしたりしたので、教会の皆さんからも喜ばれたのであった。曙教会には3年間出席している。この曙教会を奉仕教会としたことが、大塚平安教会の牧師への道となったようである。
新屋先生が曙教会の牧師として務める前に、気仙三一先生が牧師を務めておられたのである。その後、気仙先生の夫人が大塚平安教会の教会員になられたので、気仙先生も大塚平安教会の礼拝に出席されるようになっていた。乙幡和雄先生が大塚平安教会を退任することになり、後任として鈴木伸治牧師が候補の一人となったとき、曙教会に神学生として出席していたことから、気仙先生を通して曙教会に問い合わせたのであった。どなたに問い合わせをしたのか分らないが、それが後任を決めるポイントになったようである。自分の働きと言うより、すべては神様のお導きとして受け止めている。



旧約学者の手塚儀一郎先生。



手塚先生の記念会の時。



子供たちの遊びの指導、ゲームの司会等をしていた。



陸前古川教会在任時代の子供達。