鈴木伸治の徒然記

永年の牧師、園長を隠退し、思い出と共に現況を綴ります

隠退牧師の徒然記<355>

隠退牧師の徒然記(2015年2月11日〜)<355>
2015年7月25日「何が本命なの」


聖書の言葉
そこで、12人は弟子をすべて呼び集めて言った。「わたしたちが、神の言葉をないがしろにして、食事の世話をするのは好ましくない。それで、兄弟たち、あなたがたの中から、霊と知恵に満ちた評判の良い人を7人選びなさい。彼らにその仕事を任せよう。わたしたちは、祈りと御言葉の奉仕に専念することにします。」
使徒言行録6章2-4節)


神学校を卒業し、最初に赴任したのは東京の青山教会である。4年間、特に教会学校の子どもたちと過ごし、青年たちと交わりながら過ごしたこと、残されている写真が証明している。今年の4月にも青山教会時代の、その当時は若き青年であった二人の姉妹がお訪ねくださっている。青山教会時代についてはいずれ書くことにする。前回は宮城県の陸前古川教会に付いて触れているので、今回も記しておこう。
青山教会時代は、当初は明治学院の近く、芝白金で間借りしていた。その後、東京都大田区の六郷土手に13階建ての公団住宅が建てられ、抽選で当たり、そこに住むようになる。しかし、2年も住むことなく宮城へと移るのである。その宮城には車で行くことになる。それまではスズキフロンテの軽自動車に乗っていた。六郷土手から青山教会には車で通っていたのである。宮城に赴任することになり、車で行くことにしたので、同じスズキ車のキャリーバンと言う軽自動車で向かったのである。バンであるので荷物をたくさん積めるからである。当時、東北自動車道はなく4号線か6号線で東北に向かうのである。4号線は交通量が多く、そのため6号線で行くことになる。子どもたちも小さいので、無理をせずにゆっくりと向かう。そのため茨城のどこかで宿泊したし、松島にも宿泊している。松島まで来ているので、そのまま古川市までは時間もかからない。しかし、もはや夕刻であったので泊まることにしたのである。従って、三日もかけて古川に行ったのである。赴任当時のことを書くと切りがないので割愛しておく。既に教会は新牧師のために牧師館を建てなおす計画を持っていた。だから、幼稚園が夏休みに入るや工事に入ったのである。そして新しい牧師館に住むようになる。
赴任するや、4月5日には「信徒の友」誌の取材が行われる。4月1日の最初の礼拝を行ったばかりであり、何の働きもないまま取材されるのであるから、困ったものであると思っていた。しかし、取材に対して教会の役員の皆さんがいろいろと説明されていたので、私自身のオリエンテーションにもなったのである。その信徒の友の編集員が、私の車を見て、「品川ナンバーですね」と珍しそうに言ったことが耳に残っている。その当時も品川ナンバーは人気があったようである。その後、私達が古川を去ってかなり経つが、教会が建てかえられた。新しくなった教会を見ていない。再び訪れる機会もなく年月を過ごしたのであるが、二番目の子ども、星子と共に東北旅行をしたことがある。その時、建てかえる前の、すなわち我々が在任していた頃の教会と牧師館を見学したのであった。その時は無牧の時であり、また夏休み中のこともあり、教会と幼稚園には誰もいなかったのである。今の建て替えられた教会は、もはや思い出のない教会であり、再び訪れることもない。そこに思い出があるから訪れたのであり、思い出がなければ、その気にならないということでもある。
前任の牧師は後藤金次郎先生であり、教会の牧師、幼稚園の園長として40年間務められたのである。その後任なので、当然幼稚園の園長を担うと思っていた。しかし、幼稚園は教会員が園長になったのである。「牧師先生には牧会に専念してもらいたい」ということであった。折角、その様に取り組んでくれるので、その様な条件で就任をお受けしたのであった。本当に幼稚園の職務が無いので楽であった。しかし、幼稚園は宗教法人立であるので、教会の牧師が設置者ということになる。さらに宗教主任としての役目もある。幼稚園の専属牧師として共に歩むことになるのである。そして、幼稚園は送迎バスを持つことになる。誰が運転するのか。一番暇そうな牧師が運転手になったのである。幼稚園の園児のおじいさんが自動車学校を経営されている。その学校に入れていただき、自動車の大型免許を取得したのであった。それからはバスの運転手としての働きも加わってくるのである。「牧会に専念していただきたい」と言われており、幼稚園バスの運転をするのは矛盾があるのではないかと思っていた。しかし、運転をしながら子どもたちとお話しできたし、このバスで教会学校に集う子どもたちの夏期学校で郊外に連れて行ったし、何かとバスを利用して教会活動をするのである。だから幼稚園バスを運転することは、「牧会に専念している」ことになるのである。しかし、毎日のバスの運転は無理があったようで、腰痛で入院することになる。教会も反省して、幼稚園バスの運転手は専任を採用したのであった。その後、登米教会の兼人牧師になったり、その教会幼稚園の園長になったり、宮城県の思い出は尽きないのであった。



陸前古川教会に赴任した当初、品川ナンバーの車で
町中を走り回っていた。



やがて幼稚園の送迎バスの運転手となる。
このバスで教会の活動も盛んになる。



教会学校の子どもたちをバスに乗せてはハイキング。



1975年に教会創立90周年記念礼拝を行う。
赴任して二年目であった。
前列の左から四番目の子が星子。
中央の幼児が百合子、その右が羊子。