鈴木伸治の徒然記

永年の牧師、園長を隠退し、思い出と共に現況を綴ります

隠退牧師の徒然記<324>

隠退牧師の徒然記(2015年2月11日〜)<324>
2015年4月10日「残されたものを喜びつつ」


聖書の言葉
それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。
(コリントの信徒への手紙<一>13章13節)


 梅の花が咲き、続いて桜の花が咲く。そして追いかけるように桃の花が咲く。我が家の源平桃の花も、いよいよ葉桜の如く、葉桃になりつつある。三本の桃の木が庭に植えられたているが、一本は源平ではなく、白い花を咲かせる。他の二本が源平桃で、赤と白の花が混在してきれいに咲くのである。源平桃といえば父の存在がある。今は住宅になっているが、そのあたりは山の中腹であり、父が中腹を開墾して畑を作っていた。その一角に見事な太い幹の源平桃があり、この時期になると白と赤の花、源平桃の花が咲くのである。今は源平桃が咲いているので、しきりに父を思うのであるが、実は4月9日が父の命日でもある。父は1995年4月9日に98歳で亡くなる。丁度、源平桃がきれいに咲いている時期であり、葬儀は自宅で行ったので、出棺のおり、三番目の姉・朝子が中腹の畑の源平桃の枝を切り、父の棺の上に置いていたのが心に残されている。
 今住んでいる家の比較的近い場所の家に、同じように源平桃の花が咲いているのを見かける。それも数件の家の庭で咲いているのである。おそらく父が株分けして、皆さんにさし上げたのではないかと思う。源平桃の花が咲いている家に、この源平桃は鈴木政次郎がさし上げたのではないですか、なんて聞くわけにはいかない。父は鈴木家の寺にも源平桃の苗をあげる。それが成長して、今ではかなり太い幹になっている。その寺に檀家料を納めに行ったりすると、和尚さんが源平桃を示しながら、鈴木さんのお父さんにいただいたものですよというのであった。もはや父も母もいないので、我が家には浄土真宗の信仰を持つものがいないのであるが、その寺の墓に鈴木家の墓地があるので、信者がいなくても我が家は墓檀家になるそうだ。だから毎年、墓檀家料を納めに行くのであるが、ついでに父が寄進した源平桃を鑑賞してくるのであった。父が残したものとして、しみじみと見つめてくるのである。
 父については今までもブログに触れている。時々、比較的近くの老婦人から声をかけられる。お父さんと良く似ておられると言われるのであるが、写真と自分を見比べて、似ているのかなあ、なんて思っている。仕事をしている頃は、仕事一筋であった。機械を駆使していろいろな物を作る仕事である。お酒も飲まず、たばこも吸わず、ひたすら家族のために働いていたと思う。それが定年となり、高齢となると人の世話をするようになる。その頃、厚生年金に入っていない人が結構存在し、父は厚生年金勧誘員のボランティアとして務めるようになるのである。知人には仕事を紹介したり、住宅を見つけてあげたり、結構皆さんから喜ばれる活動をしていたようである。父と似ていると言われる老婦人のお連れ合いの仕事を紹介したり、家まで探してあげたようだ。さらに父は晩年になってから、老人会の集まりには良く出かけたようである。真面目一筋に生きてきた父が、老人会で民謡を歌ったりする姿はなかなか描かれない。しかし、その様な写真がいくらも残されているし、父の遺品からは民謡集なる本が何冊も出てきたのである。人世を一生懸命に生きて、楽しく過ごした父の98年までの生涯は祝福の一生であったろうと思う。なんとなくスペイン・バルセロナの高齢者たちを思い浮かべる。サグラダ・ファミリアの公園に行けば、高齢者たちが球技を楽しみ、カード遊びをしているのである。何の遊びもしないが、公園のベンチで人々の行き来を楽しそうに見つめている高齢者もいる。高齢となって、存分に遊び、楽しく過ごしているバルセロナの皆さんを思い出している。父も高齢と共に余生を楽しく過ごした一人であろう。老人会では旅行も結構開催され、いろいろなところに皆さんと出かけている。当時は今のようにデイサーヴィスなるものはない。ようやく高齢者の介護ホームができ始めた頃なのである。そして、その頃はゲートボールが高齢者の遊びであった。公園の片隅で皆さんが楽しく遊んでいる様を見たものであるが、最近はそのゲートボール遊びも見られなくなる。その変わり、道を歩けばデイサーヴィスの送迎車ばかりである。日本の高齢者はどこにいるのかと思いたくなる。デイサーヴィスも楽しいところなのだろう。
 他人ごとのように記しているが、そういう年齢になっているので、遊びをしなければならないと思うのであるが、遊ぶところがない。もはやカラオケなんて歌いたくもない。旅行と言っても、今まで散々出かけているので、あまり興味もない。何かボランティアとも思うが、思い当たらない。しかし、この年齢になっても説教に向かうことができることだけでも、感謝しなければならないのである。何もしないと言いながら、サウナに行くし、毎日1万歩の散歩をしている。パソコンを駆使して写真の加工、冊子作りなんかもしている。まあ、このくらいの楽しみがあるだけでも良いということにしておこう。



今年もきれいに咲いた源平桃の花。
父が残した源平桃を喜んでいる。



老人会を楽しみ、民謡を歌う父。米寿の頃である。
家族はこんな姿を誰もしらない。旅行も楽しんでいた。



公園でカードを楽しむバルセロナの高齢者。



球技遊びも楽しんでいる。