鈴木伸治の徒然記

永年の牧師、園長を隠退し、思い出と共に現況を綴ります

隠退牧師の徒然記<290>

隠退牧師の徒然記(2013年7月20日〜)<290>
2014年10月4日「まんざら関係のない話でもなく…」


聖書の言葉
その後アブラハムは、カナン地方のヘブロンにあるマムレの前のマクペラの畑の洞穴に妻のサラを葬った。その畑とそこの洞穴は、こうして、ヘトの人々からアブラハムが買い取り、墓地として所有することになった。
(創世記23章19-20節)



 NHKの朝の連続ドラマ「花子とアン」を興味深く視聴する。朝は6時から7時までの間には起床する。髭剃り、洗面をして、月曜日はプラゴミ、火曜日は生ごみ、水曜日はペットボトルの収集日などで所定の場所へ持っていく。それから朝食の準備をする。準備といっても、ほとんど連れ合いのスミさんがしてくれているので、お茶を注いだり、ご飯を茶碗に盛ったりする。その頃は丁度朝の8時なのである。丁度と言うより、8時に合わせているのである。8時から始まるNHKの朝ドラを見ながら朝食をとっている。だから、この生活習慣により朝ドラはほとんど視聴していることになる。「赤毛のアン」が日本において出版されるにいたる経緯を示され、興味深く見たものである。この朝のドラマに外国人が登場するのは初めてとかで、良い役割であったと思う。そして、「花子とアン」の次のドラマは「マッサン」である。予告では日本においてウィスキー造りに取り組む夫婦の物語であり、再び外国人が登場するというものであった。ドラマに外国人が登場する、なんか二番煎じのようで、余り興味を持たなかった。それでも新しい朝ドラを見ているのは、毎日の生活習慣からなのである。ここまで記していると、新しいドラマに関心がないことを言おうとしているようであるが、その逆である。9月29日から新しいドラマが始まったのであるが、私自身も、「まんざら関係のない話ではない」ことを知るようになる。もう一週間の放映であるが、毎日一生懸命に見るようになっている。
 「まんざら関係のない話ではない」と言っているが、もうずいぶんと昔に遡らなければならない。「マッサン」はニッカ・ウィスキーの創業者、竹鶴政孝さんの物語であるが、彼の妻になるリタさん、ドラマではエリーさんの日本における苦難の物語であり、夫婦愛が展開されるのである。物語のエリーさんが実在したリタさんであることを知ったとき、これは「まんざら関係のない話ではない」ことを知るのである。私が神学校に入学するのは23歳の時である。翌年のこと、同級生が北海道の余市教会の出身であり、同教会の吉岡一牧師が、夏休みには夏期伝道として帰郷するように求めていた。夏期伝道とは、神学生が夏休みを利用して教会の奉仕、実習をすることである。しかし、神学校は夜間であり、多くの学生は日中仕事をしている。帰郷するように言われた杉村君は会社に勤務していたので夏期伝道はできない。私はといえばいろいろなアルバイトをしながらの学生生活であった。杉村君は時間的にも自由な私に、自分の故郷の夏期伝道を勧めてくれたのであった。当時の北海道は遠いところにある。今では飛行機であっという間に行き来できるが、それこそ一日がかりであった。上野駅から「はつかり」と言う夜行列車に乗り、青森まで行く。8時間くらいはかかる。そこから青函連絡船で北海道の函館に渡る。4時間を要する。函館から余市まで電車に乗ること、どのくらいであったか。そして、ようやく余市教会についたのである。
 そのあたりを呑気に記していると、いろいろなことを書きたくなるのであるが、その余市教会の付属幼稚園が「リタ幼稚園」であった。テレビの物語は「エリー」さんであるが、実在は「リタさん」である。余市教会がニッカ・ウィスキーの創業者とどのようにかかわるのか。そのリタさんの葬儀の司式を吉岡一牧師が担当したからである。1960年に吉岡一牧師が余市教会に就任する。リタさんはその翌年1961年に召天されたのである。クリスチャンとして、多くの証しを残して召されたと言われる。吉岡一牧師は葬儀を執り行いながらも、就任して間もないこともあり、地域にキリスト教を広める良い時であると示される。創業者の竹鶴さんより吉岡一牧師に謝礼が渡されるとき、吉岡一牧師は謝礼を断ったと言われる。この葬儀は宣教として取り組んだからである。すると竹鶴さんは謝礼ではなく、教会に寄付をしたのであった。教会は1950年に付属幼稚園を設立している。教会、幼稚園は木造で戦争や台風で老朽化し、傷んでいたので、その寄付金を加えつつ教会と幼稚園を新しく造りなおしたと言われる。それで余市教会は新しく造りなおした幼稚園を、リタさんのお名前を記念として、「リタ幼稚園」と改名したのである。それは1962年8月26日の教会総会で決めたと言われる。
 私が神学校に入学したのは1963年4月である。そして、その翌年の1964年に余市教会の夏期伝道に行ったのであるから、余市教会もリタ幼稚園も真新しい建物であったのである。それこそリタさんの匂いが残されている時でもある。そのとき、リタ幼稚園の由来については聞いていた。夏休み中の30日間、夏期伝道で過ごしたが、残念ながら余市教会のすぐ近くにあるニッカ・ウィスキー工場を見学することはなかった。実はこの余市にはその後二回も行くことになる。翌年の8月も夏期伝道に行ったし、冷害視察などで訪れることになる。そのあたりの私の物語は割愛するが、「まんざら関係のない話でもない…」朝の連続テレビについて記しておいたのでる。



最後の神学生時代。1967年ころであり、
余市教会の夏期伝道に行った三年後くらいの時である。若かったなあ…。
曙教会時代であり、東京女子大にハイキング行ったとき。