鈴木伸治の徒然記

永年の牧師、園長を隠退し、思い出と共に現況を綴ります

隠退牧師の徒然記<283>

隠退牧師の徒然記(2013年7月20日〜)<283>
2014年9月13日「交差点あれこれ」


聖書の言葉
呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え、わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ。主の栄光がこうして現れるのを、肉なる者は共に見る。
イザヤ書40章3-5節)



 環状交差点が日本でも増えていくようである。交差点と言えば四つ角、十字路であり、信号によって車や人の往来が決められるのであるとの思いがあるが、円形上になっており信号はない。円形内では時計周りに走行し、円形内の車が優先される。従って、環状交差点に入ろうとした場合、円形内に車が走行している限り、円形の手前で待っていなければならないのである。信号もなく、むしろ「わかりにくい」との声が上がりそうだと言われている。私自身も当初はその様に思っていた。しかし、何回か環状交差点を通過する体験があり、次第に便利だと思うようになった。もっとも車に乗せられてのことであり、自分で運転した経験ではない。
 スペイン・バルセロナに二度ほど赴いている。2011年4月から5月にかけて一ヵ月半の滞在、そして2012年9月から10月にかけて二ヶ月の滞在をしている。娘の羊子がバルセロナでピアノの演奏活動をしているからである。滞在中にもあちらこちら車に乗せられて動いたが環状交差点がいくつかあり、通過の体験をしている。2013年3月から6月にかけて三ヶ月間、マレーシア・クアラルンプールに赴く。そこにある日本人教会のボランティア牧師として赴いたのである。牧師館から礼拝をささげる教会まで車で行かなければならず、毎週のように教会の方が送迎してくださる。そして家庭集会や若婦人会の集会等も車で行かなければならないのである。教会の方が送り迎えしてくださるか、タクシーで行くこともある。従って、何時も車で出掛けていたのである。そのマレーシア・クアラルンプールは環状交差点が多い。バルセロナで経験していたが、マレーシアでは週に二、三回は車で出かけるので、環状交差点がしっかりと胸に刻まれるようになる。当初は環状交差点を通過するとき、信号もなく、紛らわしいと思っていた。しかし、環状交差点のルールがあり、信号がなくてもルールに従えば紛らわしいことではない。左折より右折が大変ではないかと思っていた。環状交差点に入り、右折するには一回りするくらい走行してから右折することになる。それでも四つ角、十字路の右折より安全であることは確かである。
 信号がある四つ角の右折の場合、青信号から黄信号になるので、対向の直進車も停止する。そこで右折しようとすると、例えばバイク等が黄信号なので急いで直進しようとするのである。他の車は停止しているので右折すると、直進してきたバイクとぶつかるという事故が絶えないのである。これはバイクが無理な進行をするからであるが、責任は多くの場合、車にかかって来るのである。そういう事故を知っているので、信号のある四つ角、十字路は危険であると思っていた。そして、外国で環状交差点を経験したとき、右折車と直進車との接触事故は全くないと示されるのである。環状交差点ほど楽なものはない。むしろ信号のある四つ角、十字路こそ危険であるのだ。日本で今後環状交差点が増える場合、懸念されるのは環状交差点の大きさというものであろう。外国では道路も広いし、土地も豊かであるので、十分な環状交差点を造ることが出来る。しかし、日本のように狭い道路で、広い環状交差点が出来るかということである。たとえば長い車両の牽引車が環状交差点に入った場合、環状が狭いがゆえに事故につながらないかということである。日本でも環状交差点が増えつつあるという新聞の報道を読んで、まず長い車両の牽引車が思い浮かぶのであった。
 信号のある十字路で信号が変わるのを待っていると、大型車、中でも長い車両の牽引車が、「左に曲がります。ご注意ください」と言う放送をしている。その車が走り出すまでうるさい放送を聞いていなければならない。左折車に巻き込まれる事故があるからである。しかし、環状交差点になれば騒音となる放送は必要がなくなるであろうと思う。前記したように狭くて小さい環状交差点であれば、むしろ造らない方が良い。
 もうそろそろ車の運転を止めようと思っているとき、環状交差点に興味をしめしているのである。車検に出していた車が、整備も終えて帰ってきた。なんか、少しはドライブでもしようか、と思っている。



マレーシア・クアラルンプール市内の環状交差点



スペイン・バルセロナの広い歩道と車道。