鈴木伸治の徒然記

永年の牧師、園長を隠退し、思い出と共に現況を綴ります

隠退牧師の徒然記<277>

隠退牧師の徒然記(2013年7月20日〜)<277>
2014年8月14日「主にある再会」


聖書の言葉
ヨハネがイエスに言った。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました」。イエスは言われた。「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける」。
(マルコによる福音書9章38-41節)



 2010年4月から、ここ六浦の家で暮らすようになっている。その年の4月から6ヶ月間は横浜本牧教会の代務者としての牧師であり、まだ現役であった。そして10月からは無任所教師になり、翌年の6月からは隠退教師となったのである。現役を退いてからは、私が成長した場所、いわゆる実家で暮らすようになったことは誠にありがたいことである。周囲の家の人たちとはお話をしているが。昔の人達でもまだお話したこともない人もいる。もはや、今更ながら昔を懐かしがってもしょうがないというわけである。ところが、一度はお会いしたい人がいる。道を挟んだ家の人であったが、今は別のところに住んでいるのである。先日、その家の方に消息を聞いてみたのである。いわゆる長男の息子夫婦が現在の家の皆さんなのである。そのお連れ合いに、セイジさんやトミコさんはお元気であるか尋ねたのである。二人とも同じような年代であり、昔はよく遊んだ仲でもある。他のご兄弟は亡くなった方もあり、その後の様子を知ることが出来たのであった。
 ところが、そのセイジさんが13日にお訪ねくださったのである。丁度、お盆でもあり、ご実家によられたのであると言われる。このセイジさんが普通の人であったら、わざわざお訪ねくださらなかったであろう。実はセイジさんもキリスト教の信仰を持ち、洗礼を受けてから50も経ているのである。不思議な出会いであると思っている。母の導きのもとに関東学院の日曜学校に出席するようになるのは小学校3年生の半ばであった。私の意思ではなく、母の励ましにより、日曜学校に通うようになる。日曜日ともなればセイジさんとも一日中遊んでいた仲である。彼は1938年生まれで、私より一歳上であるが、学年は二級上になる。彼のお父さんは船大工であり、野島に仕事場があった。その仕事場に行っては船で遊び、泳いだり、釣りをしたりして遊んでいたのである。それが日曜日になると教会に行くようになるので、余り遊べなくなっていくのである。中学に進む頃には、私は清水ヶ丘教会で一日中過ごすようになるし、彼も彼の進路を進むようになり、あまり遊ばなくなったのであった。
 私は23歳で神学校に入り、寮生活で家を出ることになる。ある日、たまたま実家に帰ったとき、隣家のセイジさんが訪ねて来たのである。彼も25歳頃になっていたであろう。「イエス様がね…」と彼は私の顔を見るなり話し出すのであった。むしろ日曜学校に行く私を貶していた彼である。いつの間にか教会に導かれていたのである。そして、洗礼を受けていたのである。本当に神様のお導きを示されたのであった。神学校を卒業するや、東京、宮城、神奈川の教会に赴任し、いろいろな職務を持ちつつ教会の務めを果たすようになる。時々、実家に来ても、セイジさんはもはや隣家の家にはいないのでお会いすることはなかったのである。
 先日、隣家の息子さん夫婦のお連れ合いさんに消息を尋ねたので、セイジさんがこの度ご実家によられて、そして我が家にもご来宅くださったのである。実に50年ぶりの再会となる。セイジさんは、私が牧師として働いてきたこと喜んでくださった。今は、平潟町にある教会に出席し、長老として歩まれていると言われる。住まいは相模原であるというのに、日曜日には平潟町の教会に出席しているのである。更に仕事は造船業であるが、久里浜にある工場に今でも毎日、相模原から通っていると言われる。本当にお元気な彼を喜んだのである。そして、教派は異にしても、十字架の救いを信じる信仰なのである。幼馴染である彼を、心から神様に感謝したのであった。お別れには、私の説教集「最初の朝餐」を贈呈させていただいたのであった。
 神様を信じる道はいろいろとある。いろいろなルートで導かれるし、また不思議な出会いが与えられるものである。だから、自分の導かれてきた人生を喜び、感謝したいのである。



セイジさんが出席されている教会