鈴木伸治の徒然記

永年の牧師、園長を隠退し、思い出と共に現況を綴ります

隠退牧師の徒然記<268>

隠退牧師の徒然記(2013年7月20日〜)<268>
2014年7月16日「残り物には福がある」


聖書の言葉
エスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです。世の富を持ちながら、兄弟が必要な物に事欠くのを見て同情しない者があれば、どうして神の愛がそのような者の内にとどまるでしょう。子たちよ、言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に愛し合おう。
ヨハネの手紙<一>3章16-18節)



横須賀上町教会の礼拝担当は毎月第二日曜日である。7月は13日であった。礼拝後はいつもお茶が用意されており、軽食まで用意くださっているのであるが、いただきながらお交わりが深められる。いよいよ帰ろうとすると一人の兄弟が紙を丸めたものをお渡しくださる。毎週の説教看板であり、連れ合いのスミさんが所望したものだから、今までの物をくださったのである。くださった方ご自身が筆字で書いておられるのである。この方は芸術家であり、絵描きさんであり書道家である。そして詩を詠まれる。今までの説教看板と共に発行された詩集までご恵贈くださった。骨董屋さんを営まれているのは、やはり芸術肌であるからだろう。
どこの教会も次週の礼拝案内として礼拝説教の看板を出している。多くの場合、筆字で書かれているが、パソコンで作られているものもある。パソコンで作られているものはそれほど感じないが、筆字で書かれたものは後の処理を考えてしまう。捨てるには惜しいし、さりとて取っておいてもどうしようもない。飾っておくとしたら、すぐに場所がなくなってしまうだろう。大塚平安教会時代も、任務を終えた説教看板は段ボールにしまっておいた。「今週の聖句」も掲示板に掲げていた。これも毎週張り替えているので、役目を終えた「今週の聖句」も段ボール行となっている。時には教会員の方が、愛唱聖句だからと持ち帰られる。毎週、そういう方がおられるとありがたいのであるが。
捨てられないのは聖書、讃美歌である。聖書は口語訳聖書から新共同訳聖書になった。讃美歌も54年版から讃美歌21になった。個人の場合は聖書、讃美歌が変わっても、今までのものはわきへ置いておけば良い。しかし、教会の場合は、備付の聖書、讃美歌が多数ある。新しいものにしたとき、今までのものをどうするか。捨てるわけにはいかない。やはり段ボールに入れて、戸棚に閉まっておくのである。戸棚の中には役目を終えた説教看板、今週の聖句、聖書、讃美歌等がぎっしりと入れられているのである。「役目を終えたもの」を見つめていると、隠退牧師と重なってくるようだ。そんな思いで役目を終えた聖書、讃美歌を見ることがある。しかし、我が家では役目を終えていない。六浦谷間の集会として礼拝をささげている。当初は讃美歌21を使用していたが、役目を終えたはずの讃美歌54年版を使用することにしている。聖書にしても、新共同訳聖書を用いているが、たびたび口語訳聖書の訳文、聖書の言葉を引用しているのである。だから、役目を終えたという言い方は控えておこう。何よりも役目を終えたはずの私自身、隠退牧師でありながら六浦谷間の集会としての礼拝をささげているし、また求められていくつかの教会で説教を担当している。この世界は「役目を終えた」という言い方は禁物のようである。
我が家では「残り物には福がある」ことで感謝している。讃美歌54年版を使うにしても、何冊かは余分に持っているが、時には大勢の集会の時がある。たとえばクリスマスには10名もの皆さんがお集まりくださる。そんなことがあるので、所要で大塚平安教会に寄ったとき、戸棚の段ボールの中で眠っている讃美歌54年版を数冊いただいてきたのである。それから54年版のヒムプレーヤーが六浦谷間の集会で活躍しているし、讃美歌21のそれもある。新しいヒムプレーヤーが次々に出るものだから、いくつか不要になったものを戸棚にしまっておいたのである。しかし、捨てることが出来ないものがあるが、捨てても良いものまでしまい込んでいる。戸棚を整理すれば、不要と思うものがあるのであるが、何かの役に立つとの思いがあるので、いつまでも戸棚の中で眠っているのである。
我が家からは結構離れているところにある家は、ごみの家である。家の中に詰め込めるだけ詰め込んで、それでもまだ「ごみ」なるものを詰め込もうとしている。窓の外まで「ごみ」なるものがあふれ出ているのである。発火するのではないかと心配もしている。隣近所の人も心配しつつ見ているのであろう。もちろんその家は「ごみ」のみで人は住んではいないのであろう。どういう料簡で「ごみ」屋敷にしているのかわからないが、身辺整理をあまりしない自分を示される。大切な物は保存しておけば、「残り物には福がある」ことにもなるが、やはり適度に整理しなければならないのである。



清水ヶ丘教会の説教看板



横須賀上町教会の説教看板