鈴木伸治の徒然記

永年の牧師、園長を隠退し、思い出と共に現況を綴ります

隠退牧師の徒然記<242>

隠退牧師の徒然記(2013年7月20日〜)<242>
2014年4月23日「指し示す場所は」


聖書の言葉
ヤコブは息子たちに命じた。「間もなくわたしは、先祖の列に加えられる。わたしをヘト人エフロンの畑にある洞穴に、先祖たちと共に葬ってほしい。それはカナン地方のマムレの前のマクペラの畑にある洞穴で、アブラハムがヘト人エフロンから買い取り、墓地として所有するようになった。そこに、アブラハムと妻サラが葬られている。そこに、イサクと妻リベカも葬られている。そこに、わたしもレアを葬った。あの畑とあそこにある洞穴は、ヘトの人たちから買い取ったものだ。」
(創世記49章29-32節)



三番目の姉、朝子の一周忌が去る4月19日に行われた。昨年4月30日、79歳で亡くなったのである。その時、私たち夫婦はマレーシア・クアラルンプールにいたのである。クアラルンプール日本語キリスト者集会のボランティア牧師として3月13日から6月4日まで赴いていたのである。同教会は2012年3月までは専任の牧師がおられた。しかし、高齢になられたということで退任される。後任の牧師が決まるまで日本基督教団の、主として隠退牧師が応援することになった。それぞれ3ヶ月ずつボランティア牧師を担う。三ヶ月はパスポートで滞在できる期間であるからだ。私たち夫婦は五番目のボランティア牧師として赴いたのである。マレーシアは常夏の国であり、日本を飛び立つ頃は3月4月の花粉被害の時期でもあり、その被害を受けなくてもよいことになり、のんびりとクアラルンプールで生活していたのである。4月30日、その日は婦人会の集いがあるので、連れ合いのスミさんと出かけるところであった。婦人会と言っても、この日は聖書を中心とする集いではなく、手芸を楽しむ集いであった。だから私は出席しなくてもよいのであるが、そういう集いを経験したかったのである。朝、出かけようとしていると、私たちの子供、三番目の百合子からの電話が、日本から入る。私の姉、朝子が亡くなったということであった。姉は79歳でもかなり若々しい。それで、電話の連絡を疑ったのであるが、事実のようである。そのため、私は婦人会には出席しないで牧師館に残ることにした。朝子の連れ合いやいくつか連絡する必要があったからである。婦人会は教会の婦人が迎えに来てくださり、スミさんは車に乗せられて行く。クアラルンプール日本語キリスト者集会は2014年4月から、専任の牧師を迎えて、新しい歩みだしを喜んでいることを記しておく。
朝子の連れ合いに電話し、このように状況にあるので、葬儀には出られないことを詫びる。葬儀には二番目の娘、星子と百合子が列席することになる。そして6月4日に帰国し、6月13日の埋葬式には列席できたのである。そして今年は一周忌になる。記念会は鈴木家の寺で行われた。もはや両親がいないので鈴木家の寺というわけにはいかないのであるが、鈴木家の墓があるので、今でも墓檀家という立場になるのである。だから檀家として毎年のように護持会費というものを払わなければならない責任がある。姉の葬儀をこの寺の住職さんに依頼したのは、姉の連れ合いのお母さんの葬儀を依頼しており、それ以後、姉夫婦はこの寺と関わりを持っているのである。鈴木家の寺でもあるので、今の住職さんに母の葬儀、父の葬儀を依頼している。いずれも自宅で葬儀を行っている。長姉の美喜子はクリスチャンであり、清水ヶ丘教会員であるが、生前から、自分の埋葬は両親の墓と共にしてほしいとのことであったので、このお寺の墓地に埋葬している。
姉の一周忌にあたり、会場が鈴木家の寺であるので、墓参りもすることになる。一周忌にはスペイン・バルセロナでピアノの演奏活動をしている羊子が一時帰国しており、羊子も列席したのである。その前に鈴木家の墓参りをしながら、何時ものことではあるが、やがて私自身の埋葬をどこにするかということに思いが至るのである。大塚平安教会時代に私の設計で建設した大塚平安教会の墓地を誇りに思っている。そこに埋葬してもらいたいとも思うのであるが、鈴木家の墓地もある。しかし、鈴木家の墓地に埋葬しても、いずれ鈴木家はいなくなるのである。大塚平安教会の墓地に埋葬する限り、後世まで皆さんに覚えられるであろうとは思っているのであるが。鈴木家の墓地で、ひっそりと眠っているのも悪くはないと思っているのである。



大塚平安教会の墓地。


鈴木家の墓地で。


寺の境内地で。