鈴木伸治の徒然記

永年の牧師、園長を隠退し、思い出と共に現況を綴ります

隠退牧師の徒然記<240>

隠退牧師の徒然記(2013年7月20日〜)<240>
2014年3月31日「新しく思い出が加わり」



聖書の言葉
神に従う人はなつめやしのように茂り、レバノンの杉のようにそびえます。主の家に植えられ、わたしたちの神の庭に茂ります。白髪になってもなお実を結び、命に溢れ、いきいきとし、述べ伝えるでしょう。わたしの岩と頼む主は正しい方、御もとには不正がない、と。
詩編92編13-16節)




ブログの題がいつも変なものであることは承知している。今回は「源平桃」について記したいのであるが、「源平桃…」との題にすると検索に引っかかるのである。「源平桃」について調べたい人が検索した場合、目的が違うものが検索され、失望を与えてしまうのである。なるべく固有名詞は使わないブログの題にしているということである。
我が家の庭に源平桃の花が咲いている。今が満開で見ごろの時なのである。しかし、今回は枝をはらっているのであまり花が見られない。少し枝をはらいすぎたようでもある。源平桃と鈴木家について記すこと、過去にもたびたびであるが、源平桃の思い出に新しく「思い出」が加わるのである。もともと鈴木家に源平桃が咲くのは、私の父が丹精して育てたものである。当初は丘の中腹にある畑に源平桃の木があり、その木株を庭に植えて育てたのである。このようにして、苗を皆さんにあげているので、この界隈の家の庭に源平桃の花が咲いている。京急線安針塚にある鈴木家の寺にも苗をあげたので、今ではかなり太い幹になって花を咲かせている。毎年、今頃になって墓参りするのは、その源平桃を見るためでもある。その父は1995年4月9日に97歳で亡くなる。まだ源平桃の花が咲いている時で、その頃は丘の中腹の畑も、源平桃も昔のままであった。葬儀は自宅で行ったので、棺を送りだすとき、姉が源平桃の花を畑からとってきて父に手向けたことが思い出される。父がいなくなるとともに丘の中腹の畑も造成されて宅地になる。源平桃も切り倒されてしまう。木株を鈴木家の庭に移しているので、父を思い出しつつ、花見をすることになる。
実は、昨年はこの源平桃の花を見ることができなかった。昨年は3月13日から6月4日まで、マレーシアのクアラルンプールに滞在していたのである。クアラルンプール日本語キリスト者集会のボランティア牧師として三ヶ月間赴いたのであった。その集会には2012年3月までは専任の牧師がおられたが、退任と共に牧師不在となる。そこで同集会は日本基督教団に牧師を要請したのである。隠退牧師でも三ヶ月ずつ派遣してもらいたいということであった。三ヶ月はパスポートで滞在できるからである。私たち夫婦は五人目の牧師として赴いたのである。同集会は二年間ボランティア牧師と共に歩んだが、今年2014年4月からは専任の牧師が決まり、新しい歩みをすることになっている。その様なわけで、昨年は源平桃の咲く時期に不在であり、久しぶりに源平桃の花を観賞している。もっとも我が家の子供、百合子が写真に写してメールで送ってくれたので、写真では観賞している。
ところで、「新しく思い出が加わり」の「新しい思い出」を記しておかなければならない。スペイン・バルセロナでピアノの演奏活動をしている娘の羊子は、すでにスペインの曲を演奏してCDに収めている。羊子は、このたび日本の曲を演奏してCDに収め、発行したのである。「幻想曲さくらさくら」、「宮城道雄の春の海」、「瀧廉太郎の花」等15曲を収めているのであるが、その中に羊子自身の作曲した曲も入っている。「希望」であり、そして「源平桃」という題である。羊子にとっても六浦の源平桃は深く心に示されている。昨年は、私たちはマレーシアにいたが、羊子も10日間、クアラルンプールで過ごしたのである。そしてchapelコンサートでピアノの演奏をしたのであった。昨年ではなく一昨年、羊子は今頃一時帰国しており、源平桃の木の下で記念写真を写したりしている。羊子にとって「源平桃」、そして「六浦の家」が重なり、日本を思い出すとき源平桃として思い出しているのであろう。「源平桃」の作曲は羊子の日本の思い出なのであろう。羊子の日本の曲を収めたCDは3月に発行したばかりであり、いずれ日本の皆さんにも聞いていただくことになる。そうすると、作曲の原点である六浦の「源平桃」を観賞するために、この時期は大勢の人が押しかけてきたりして…。




2012年4月4日に撮影した源平桃。



その四日後の4月8日、羊子が一時帰国していたので家族記念写真。



2014年3月31日の源平桃。今年は枝をはらったので花が少ない。