鈴木伸治の徒然記

永年の牧師、園長を隠退し、思い出と共に現況を綴ります

隠退牧師の徒然記<232>

隠退牧師の徒然記(2013年7月20日〜)<232>
2014年2月12日「指針を示される」


聖書の言葉
これは知恵と諭しをわきまえ、分別ある言葉を理解するため、諭しを受け入れて、正義と裁きを公平に目覚めさせるため。未熟な者に熟慮を教え、若者に知識と慎重さを与えるため。これに聞き従えば、賢人もなお説得力を加え、聡明な人も指導力をますであろう。また、格言、寓話、賢人らの言葉と謎を理解するため。
箴言1章2-6節)



 関東地方も大雪となり、首都圏の混乱と共に、個人的にも困難を強いられる。大雪となったのは2月8日の土曜日であり、その日は遅くまで雪が降り続いていた。2月9日は横須賀上町教会の礼拝説教、聖餐式を担当するので赴くのであるが、我が家の子供達も一緒に出席する予定であった。土曜日の夕刻に来る予定であったが、この大雪では来ることができない。むしろ、来ないように連絡しておいたのである。そのため、翌日は横須賀上町教会に一人で向かう。いつもは車で行くのであるが、車を走らせる状況ではない。歩いて追浜の駅まで行き、そこから京急線横須賀中央駅まで乗るのである。出かける前に娘の星子から電話があり、傘を持って杖代わりにした方が良いとアドバイスしてくれる。杖と言えば登山用の折りたたみ式杖を持っていたので、持参することにした。朝8時30分頃に家を出たが、まだ人の歩いた跡が少なく、雪道を歩く状態である。凍結している部分もあり、危なく滑りそうであったが、杖を持参したことは賢明であった。杖をつきながら雪道を歩き、いつもは20分くらいで追浜駅に着くが、30分も要する。電車は大幅なダイヤの乱れもなく、ほどなく電車が来る。横須賀上町教会はその名の通り上町なのである。だから横須賀中央駅から坂を上っていくことになる。それについても星子が助言している。滑るといけないからバスで行くようにと言うことであった。助言通りバス停に行くと、バスの運転を見合わせていますと張り紙がしてあった。それでも待つこと10分ほどしてバスが来る。本来は教会まで歩こうと思っていたが、バスに乗ることによって、教会には9時40分頃にはついてしまう。自分の思いのままに歩いていたら10時を過ぎることになる。とにかく10時30分開会の礼拝には余裕をもって臨むことができたのである。子供達の助言を有難く思っている。
 今回の横須賀上町教会には私一人の出席である。いつもは連れ合いのスミさんが一緒である。今回出席できなかったことについては後日報告することになる。礼拝には我が家の子供達も出席しているが、雪のため出席できない。礼拝も雪の影響で出席者が少なく、8名の出席であった。都会は雪のある生活には慣れてなく、何かと支障をきたすことになる。以前、宮城県の陸前古川教会の牧師をしていた。仙台の北にあり、太平洋側なので、東北でも雪が少ない。しかし、寒さにおいては厳しさがあった。雪はいつも降っているが、たくさん積もることは少ない。それでも土曜日に大雪になっても、翌日の礼拝はいつも通りの顔ぶれなのである。雪が降ろうが、凍結があろうと変わりなく礼拝に出席される皆さんであった。生活がそのように備えられているからである。車にしても、冬になると昔はスパイクタイヤで走っていた。しかし、その後スパイクタイヤは禁止されている。道路の粉塵となるからである。今はスノータイヤで走るようになっている。スパイクタイヤは凍結していようが、雪道であろうが普通に走行することができるのである。だから雪が降れば車が走れないということはなく、いつものように礼拝には出席できるのである。
 雪の後は雪かきが大変である。少なくとも家の前の道路の雪はよけておかなければならない。駐車場も雪が積もっており、日、月、火曜日は雪かきに明け暮れる。家のベランダまで積もっており、それらをとりのけてようやく雪の処理が終わったのである。今回の雪の経験は思わぬメッセージが生まれることになる。雪道を杖をついて歩いたことについては前記した。こんなに杖のありがたさを示されたことはない。登山の時にも有難いと思っているが、雪道を歩く時の杖は、人生の指針を与えているように思えたのである。自分では大丈夫と思っていても、杖という支えが必要なのである。そう、この人生は支えが必要なのである。人と言う字が支え合ってできているように、人間は支えあって生きる存在なのである。そして、私自身を支えるのは私達にとって神様の御心であるということだ。自分の思い通りに生きるのではなく、神様の御心を持って生きるならば、どんなにか支えとなるであろう。結局、説教になってしまったりして。



玄関先まで大雪が。



庭も雪に覆われて。



道路や駐車場の雪かきに汗を流しつつ。