鈴木伸治の徒然記

永年の牧師、園長を隠退し、思い出と共に現況を綴ります

隠退牧師の徒然記<230>

隠退牧師の徒然記(2013年7月20日〜)<230>
2014年2月1日「御心の働き人」


聖書の言葉
人々からでもなく、人を通してでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中から復活させた父である神によって使徒とされたパウロ、ならびに、わたしと一緒にいる兄弟一同から、ガラテヤ地方の諸教会へ。わたしたちの父である神と、主イエス・キリストの恵みと平和が、あなたがたにあるように。
(ガラテヤの信徒への手紙1章1-3節)



 今橋朗先生がご召天になられた。81歳になられている。1月30日に告別式が日本聖書神学校で行われた。私は所用があり、列席することができなかった。今橋朗先生とはお交わりをいただき、また励ましを与えられている。私自身、いろいろな思い出が甦る。今橋先生は46年間、蒔田教会の牧師を務める。その後は3年間、日本聖書神学校の校長を務められている。そして、神の庭・サンフォーレ支える会の委員長を12年間担ってくださった。ご病気になられ、その後は私が委員長を担っているのである。キリスト教教育、音楽関係では多くのお働きをされている。神奈川教区議長、教団書記等も担っておられる。このブログでは今橋先生との個人的な関わりを記しておく。
 私は1979年9月より大塚平安教会の牧師に就任する。その後、何かの会合が蒔田教会で開催されたので、私も出席することになる。その時、蒔田教会の玄関に今橋先生がおられ、「鈴木先生ですね。ようこそ神奈川教区へ」とご挨拶くださったのである。まだ諸牧師とは親しくお話できない状況であり、今橋先生の声かけは励みになったと思う。その後、年数が経ち、私が神奈川教区書記、副議長、議長の役職を持つようになり、神奈川教区事務所が蒔田教会の敷地内にあるので、事務所に通うことが多くなる。教区事務所が蒔田教会の敷地内にあることは今橋先生の全面的な好意でもあるが、いずれは他の場所に移した方が良いと話し合われるようになった。そのことを今橋先生に伝えるとき、「今橋先生がご存命中に移転した方が良いと思いまして」と言ってしまう。先生はその言葉を興味深く受け止められ、何かに付けて、私の顔を見ては「私の存命中」と述べられてはお笑いになるのであった。今橋先生の蒔田教会在任中、そしてご存命中も教区事務所の移転は果たせないままである。先生はそれで良しと言われているようである。時々、先生の「私の存命中」が思い出される。
 蒔田教会とはいくつかの関わりを持つことになる。同教会の神学生であった古旗誠さん(現・目白教会牧師)が大塚平安教会を奉仕教会とすることになった。これは今橋先生が、大塚平安教会には幼稚園があり、また二つの施設との関わりを持っているので、蒔田教会とは違った取組みがあるとされ、古旗誠神学生を一年間派遣されたのである。彼は良い働きをしてくれたが、退任と共に大塚平安教会の大事な奏楽者であった斉藤由紀子さんを連れて行ってしまったのである。その後、大塚平安教会出身の佐竹拓平さんが蒔田教会の伝道師に就任する。そして、彼は蒔田教会で教会学校等で良き働きをしている女性と結婚することになったのである。その彼らの結婚式の時、今橋先生が祝辞を述べられた。「佐竹伝道師は蒔田教会の大事な娘をさらって行ってしまった」と述べられた。それで私は、「何をおっしゃいますか。蒔田教会の方が先に大塚平安教会の大切な奏楽者をさらって行ったのです」と応酬したのである。披露宴の出席者の爆笑であった。
 神奈川教区において高齢者支援として老人施設を建設する議案を提出することになる。私を含めた有志が取り組んだのである。しかし、教区総会では議論が並行し、なかなか決議には至らなかった。その議案を巡って二回目の教区総会でも議論が並行する。その時、これは常置委員会に付託することを提案されたのが今橋先生であった。教区総会は様々な意見があり、なかなか一つにはならないと判断されたのである。しかし、常置委員会でも意見が並行したので、有志の会は議案を取り下げ、有志の取り組としたのである。そして、神の庭・サンフォーレ支える会を立ち上げたとき、その委員長を心良くお引き受け下さったのであった。
 ごく個人的なことを記したが、先生の諸分野でのお働きを記すとしたら枚挙にいとまがないであろう。個人的にも良き指導者であり、良き友であったと記しておきたい。御心の働き人として示されている。