鈴木伸治の徒然記

永年の牧師、園長を隠退し、思い出と共に現況を綴ります

隠退牧師の徒然記<229>

隠退牧師の徒然記(2013年7月20日〜)<229>
2014年1月29日「手の届くところにあることども」


聖書の言葉
将来、あなたの子が、「我々の神、主が命じられたこれらの定めと掟と法は何のためですか」と尋ねるときには、あなたの子にこう答えなさい。「我々はエジプトでファラオの奴隷であったが、主は力ある御手をもって我々をエジプトから導き出された。主は我々の目の前で、エジプトとファラオとその宮廷全体に対して大きな恐ろしいしるしと奇跡を行い、我々をそこから導き出し、我々の先祖に誓われたこの土地に導き入れ、それを我々に与えられた。主は我々にこれらの掟をすべて行うように命じ、我々の神、主を畏れるようにし、今日あるように、常に幸いに生きるようにして下さった。我々が命じられたとおり、我々の神、主の御前で、この戒めをすべて忠実に行うよう注意するならば、我々は報いを受ける。」
申命記6章20-25節)



 散歩で野島公園を歩き、野島山に登り東京湾を一望したり、乙舳海岸から八景島シーパラダイスの風景を眺めたり、水鳥達の浮かぶ波間を観たり、更にバーベキュー場を歩いたりしていることについては記している。しかし、まだ記していないことがある。今まで佇まいしか眺めていなかったが、先日23日に野島を歩いた時、初めて伊藤博文公別邸を見学する。午後4時30分が閉館であり、いつもはその時間を過ぎた頃に散歩で通るのである。23日は早めに家を出たので別邸に着いたのは午後4時頃であった。玄関が開いており、自由に見学することができる。見学料は無料である。
 伊藤博文と言えば、一昔前の千円札に印刷されていた。今は野口英世に変わっているが、千円札程度の伊藤博文しか知らない人がいるかもしれない。しかし、伊藤博文は歴史的にも大きな働きをした人なのである。1885年(明治18年)、日本は初めて内閣制度が創設され、伊藤博文が最初の内閣総理大臣になるのである。後に大日本帝国憲法を発布するのであるが、伊藤博文も起草者の一人なのである。その憲法を起草したのは金沢八景にある東屋旅館であった。金沢八景には、明治憲法起草の場所としての案内が建てられている。そこで作業をしているとき、起草文が入っている鞄が盗まれてしまう。それで横須賀市夏島で憲法の起草を続けるのである。私の生まれはその夏島のすぐ近くである。横須賀市浦郷町鉈切りという場所であるが、夏島は近くにあったのである。それを思うと、手の届くところで明治憲法が作られたことを示される。
 そして野島にあるのは伊藤博文の別邸である。1898年(明治31年)に伊藤博文の別邸として造られている。昔は金沢の海岸地域は別荘地帯であったと言われる。風光明媚な金沢の海岸は、東京や横浜に住む者にとっては保養の場所でもあったのである。しかし、その後、湘南への交通が整備されることにより大磯、葉山が別荘地になって行き、金沢は別荘地としては衰退していくのである。そういう中で野島にある伊藤博文公別邸は残されていたのである。この伊藤博文別邸で憲法が起草されたのではない。
 伊藤博文公別邸は茅葺屋根の田舎風の家であるが、当時としては立派な建物であったであろう。なかを見学すると、昔ながらの屋内を示される。海岸を見ながらお茶をいだくことができるという。それは決められた日であるので、いずれはいただくことにしよう。かなり広い家でもある。風呂場やトイレも見学することができる。随分と清潔なトイレであった。明治時代の歴史的記念のものが展示されてあった。
 このように歴史的な建物が近くにあり、見学することもできることは、誠に良い地域に住んでいると思う。まさに手の届くところに歴史上のことどもが存在しているのである。歴史的な事柄が手の届くところにあるのであるが、千円札の方はなかなか手が届かないのが現実である。



伊藤博文公別邸案内板



別邸の佇まい。



この居間で野島海岸を見ながらお茶をいただくことができる。