鈴木伸治の徒然記

永年の牧師、園長を隠退し、思い出と共に現況を綴ります

隠退牧師の徒然記<224>

隠退牧師の徒然記(2013年7月20日〜)<224>
2014年1月7日「原点を確認しつつ」


聖書の言葉
初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。「光あれ。」こうして光があった。神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。
(創世記1章1-5節)



新しい年を迎えて思うことは、もちろん年齢を重ねるということであるが、今年の5月の誕生日で75歳になる。後期高齢者の始まりである。後期高齢者が車を運転する場合、それなりのマークを車に張らなければならない。70歳以上でも任意に付けることが奨励されていたが、後期高齢者は義務となり、マークをつけなければ違反となるのである。2万円以下の罰金に処せられるとか。たまたま年末に買い物に出たとき、そのマークを買い求めておいた。そろそろ車の運転を辞めようかとも思っているのであるが、連れ合いのスミさんの通院、あるいは買い物等があり、もう少し置いておこうかと思っているのである。今は車に乗るより歩く方が多い。携帯電話に設定されている万歩計でシルクロードを歩き、ローマに到達したことについてはすでに記している。到達してから三日後には再びシルクロード設定している。前回は中国の西安からイタリアのローマまで4ヶ月28日を要したが、今回は4ヶ月で達成しようと思っている。
最近は新しい散歩ルートを歩くようにしている。金沢八景野島公園、追浜を経るコースである。今までは1時間30分くらいで10000歩であった。野島公園を回るとかなりの歩数が加わり、18000歩にもなる。2時間以上歩くことになるのであるが、隠退教師は時間があるので、楽しんでいるのである。野島公園を歩き、更に足を伸ばすと乙舳海岸に出る。東京湾に面する海岸である。今は海岸の浜辺は整備されており、波打ち際に造られている階段に座りながら、八景島シーパラダイスの風景や、着陸態勢の飛行機を眺めたり、水鳥達の泳ぐ姿を楽しんでいる。そして、自ずといにしえの昔を偲ぶのであった。
おそらく中学生くらいまでこの野島に遊びに来ていたと思う。アサリ掘り、水泳等ができたのである。しかし、今はこの場所は遊泳禁止となり、アサリ取りもできなくなっているようである。宮城県の教会から神奈川県綾瀬市にある教会に転任した頃、三人の子ども達は小学生であった。六浦の実家に来ては野島海岸に遊びに来ていたのである。アサリ取りでは、食べられない貝類を取っては捨てなければならなかった。釣りに来たこともある。子ども達は釣竿に餌をつけられないので、それぞれ付けてあげるのであるが、一人に餌をつけてあげれば次の子が餌を食べられてしまう。魚は上手に餌を食べてしまうのである。結局、次から次へと餌をつけることで、私自身は釣りができなかったというわけである。
野島は、今は青少年の野外活動の場となっている。野島公園にはキャンプ場、バーベキューの場があり、青少年センターがある。海岸での遊びはなくなっている。海岸での遊びは八景島海の公園に移動しているのである。そちらにはシーパラダイスもあり、駐車場も広い。野島にも駐車場があるが、それほど広くもない。野島山には展望台があり、東京湾を一望できるし、房総半島まで見ることができる。八景島海の公園とは趣を異にする場になっているのである。今は青少年の野外活動のシーズンではなく、野島公園は静かな佇まいである。近所の子ども達が遊び、犬の散歩、マラソンや散歩をする人程度なので、散歩するには楽しい場になっている。昔を偲びつつ歩くこと、後期高齢者の励みなのかもしれない。
私の場合、隠退教師になったとき、再び成長の場に戻されたのである。この六浦の家には4歳頃に転居している。それ以前は追浜の夏島、鉈切というところで生まれ、育つ。そこは戦争中、軍の追浜飛行場があり、戦争が激しくなったので強制転居となり六浦に住むようになったのである。今は散歩で私が生まれた場所のすぐ近くを歩いている。そして、生活は4歳以降に成長した場所で過ごしているのである。何かと昔を示されながら、しかし進化、発展していく街並を見つめながら過ごしているのである。常に原点に戻されての歩みが導かれているということである。



野島山から東京湾を望む。



乙舳海岸から八景島シーパラダイスを望む。