鈴木伸治の徒然記

永年の牧師、園長を隠退し、思い出と共に現況を綴ります

隠退牧師の徒然記<219>

隠退牧師の徒然記(2013年7月20日〜)<219>
2013年12月23日「示される御心」


聖書の言葉
主の言葉が私に臨んだ。「わたしはあなたを母の胎内に造る前からあなたを知っていた。母の胎から生まれる前にわたしはあなたを聖別し、諸国民の預言者として立てた。」わたしは言った。「ああ、わが主なる神よ。わたしは語る言葉を知りません。わたしは若者にすぎませんから。」しかし、主は言った。「若者にすぎないと言ってはならない。わたしがあなたと共にいて、必ず救い出す」と主は言われた。
エレミヤ書1章4-8節)



祝クリスマス。今年もクリスマスを迎え、改めて主イエス・キリストの救いを示されている。いつもは、と言っても三年前までは、この時期になるとクリスマスの集いのラッシュとなり、「クリスマスおめでとうございます」と何度も挨拶するのである。在任中、まず幼稚園のお母さん達と教職員のクリスマスが開かれる。続いて教会婦人会と家庭集会合同クリスマス、さがみ野ホームや綾瀬ホームのクリスマス、子供の教会のクリスマス、そして教会のクリスマス礼拝があり、聖夜礼拝がある。この他にもグループホームのクリスマスがある。12月24日の聖夜礼拝までクリスマスの忙しさに追われていたようである。忙しいながら、やはり皆さんと共にお祝いすることのお恵みを与えられていたのである。
隠退してから3年になるが、隠退してからは在任中とは異なり、クリスマスの挨拶をすることが少なくなる。今年は昨日の六浦谷間の集会クリスマス礼拝で二度目の挨拶を行う。一度目は先週12月20日にサンフォーレ戸塚のクリスマス礼拝が開かれ、今年は私が礼拝を担当したので、皆さんと共に「クリスマスおめでとうございます」の挨拶をしたのであった。株式会社サンフォーレと私達有志が提携して、秦野に「神の庭・サンフォーレ」を立ち上げ、「支える会」として入居されている皆さんを支援している。サンフォーレは戸塚にあるシニアホームの三階をキリスト者のホームとして提供してくれたので、昨年よりクリスマス礼拝をささげるようになったのである。サンフォーレ戸塚は横浜市中田にある。昨年は電車で行ったが、今回は連れ合いのスミさんも出席したいというので、腰を痛めているスミさんなので車で行くことにした。初めての道であるが、ナビの案内で何とか行きつくことができた。今まで車に乗ってあちらこちら行かないので、様々な道路があることを知り、戸惑いながらも目的地に向かったのである。サンフォーレ戸塚は横浜中田教会の皆さんが関わってくださっており、毎月一度は集会を開き、入居者の皆さんとお交わりをされている。まだ、キリスト者の入居者を確認していないが、これから皆さんに覚えられて行くであろう。だからキリスト教信者ではない方がクリスマス礼拝に出席したものの、説教にも「つまらない」なんて言われるのである。それもそうであろう。なるべくわかりやすくお話をしたのであるが。それでも30名位の皆さんがお集まりであった。
二回目のクリスマスのご挨拶は昨日22日、六浦谷間の集会クリスマス礼拝であった。いつもはたった二人だけの礼拝であるが、今回は12名もの皆さんが出席され、四本のローソクの明かりのもとに、イエス様のご降誕のクリスマス礼拝をささげたのであった。礼拝後は食事をいただきながらお祝いする。そしてその後は11月に羊子の一時帰国で開催されたピアノコンサートの写真やマレーシアのクアラルンプール日本語キリスト者集会の滞在写真を皆さんが御覧になりつつ歓談する。皆さんもクリスマスのお恵みをいただいて過ごされたと思う。
ところで今年のクリスマスは二つのメッセージを導かれている。サンフォーレ戸塚のクリスマス礼拝説教は、「たった」を主題としている。それは私達夫婦が、「たった二人だけの礼拝」をささげていることに関し、神様は「たった」に対する存在を顧みてくださることを導かれたのである。マリアさんに天使が現れ、マリアさんから子供が生まれることを告げたとき、マリアさんは「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように」と告白したのである。「はしため」と言った場合、「こんな」とか「たった」の意味がある。「たったこんな者」を神様が顧みてくださっていることである。マリアさんは「たった」の自分を神様にお預けになったのである。そこに大きな祝福があるということである。
もう一つのメッセージは六浦谷間の集会クリスマス礼拝であるが、「脇役」の示しである。私が小学校6年生の頃、教会学校では祝会でクリスマス物語を演じることになった。私の役はヨセフさんの大工仲間であった。台詞もなく、大工仲間としてヨセフさんの周りをノコギリなんか持ってうろうろしている役柄である。小学校3年生から、ほとんど休むことなく出席していたのに、役柄はこんなものだった。そして、最近出席したばかりの友達がヨセフさんに選ばれたのである。彼はハンサムだし、頭の良い子であった。本当に面白くなかったのである。しかし、教会学校に出席することは母の意思であり、母から背中を押されるようにして出席していたのである。いわゆる主人公ではなく、脇役であったことを思い出している。そのことから脇役に導かれている自分を示されているのである。もしその時、主人公であったら、その後の成長がどんなものであろうかと思う。神様は私たちを脇役に導いていることを示されるのである。カトリック教会はマリア様として崇めているが、プロテスタント教会マリアさんを崇めない。しかし、「わたしは主のはしためです」と告白したマリアさんの信仰を尊敬しているのである。聖書の主人公はイエス・キリストである。それに対してマリアさんは「脇役」なのである。クリスマス物語に登場する羊飼いさん、博士さん達もまた脇役として登場しているのである。イエス様の救いの福音が地の果てまで浸透するように、脇役に選ばれているのが私達である、ということをメッセージとしてお伝えしたのであった。「たった」、「脇役」は意味合いは同じである。このような者にもクリスマスのお恵みが豊かに与えられていることを示されている。




サンフォーレ戸塚りクリスマス礼拝。
祝会で入居者にプレゼント。



六浦谷間の集会もクリスマス礼拝が捧げられる。
主のご降誕をお祝いする集会の玄関。