鈴木伸治の徒然記

永年の牧師、園長を隠退し、思い出と共に現況を綴ります

隠退牧師の徒然記<208>

隠退牧師の徒然記(2013年7月20日〜)<208>
2013年11月23日「存在を残したいと」


聖書の言葉
こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか。信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。
ヘブライ人への手紙12章1-2節)




横浜市立大学のエクステンション講座が先日、11月19日に開かれたので受講する。今回は「イタリア・ルネサンス美術の3大巨匠(天才芸術家の名作探求)」とのテーマで六回の講座である。最初の二回はレオナルド・ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」と「聖アンナと聖母子」についての説明であった。第三回と第四回はミケランジェロについてであるが、「ダヴィデ」と「メディチ家礼拝堂」について受講した。もう一人の巨匠はラファエロであるが、12月17日の最終講座で学ぶことになっている。
ミケランジェロについては昨年ローマを訪れ、ヴァチカンを見学したが、サン・ピエトロ大聖堂に展示されている「ピエタ」を鑑賞している。かねがね画集等で見ていたが、実際その前でたたずむとき、やはり感動を与えられる。よくもこんなに美しく彫像ができるものだと思うのである。さらにヴァチカンの中にあるシスティーナ礼拝堂の天井画にはただ驚くばかりであった。1508年から1512年の4年間で完成させたと言われるから、相当な忍耐と根気が必要であったかと示される。これらの作品を示されているので、ミケランジェロについては親しみを持つのであるが、塩野七生さんが書いている地中海世界の歴史や物語にしばしばミケランジェロが登場しているので、今回のエクステンションに興味があったのである。
ミケランジェロシスティーナ礼拝堂の天井画で驚異的な仕事をしているが、むしろ建築、彫像の世界で才覚をあらわしている。ヴァチカンの「ピエタ」は有名であるが、それと共にフィレンツェのアカデミア美術館に展示されている「ダヴィデ」は、彼の名声を不動のものにしていると言われる。建築に関しては、「メディチ家礼拝堂」は新しい分野を切り開いたと言われる。この礼拝堂は彫刻と建築による複合体の典型的な傑作と言われる。そのメディチ家の盛衰の状況の中で芸術を生み出していくミケランジェロであったのである。
講師がミケランジェロのエピソードをお話されており、心に残っている。ミケランジェロが高貴な人の彫像を造ることになった。そして、完成した彫像は見事なものであったと言われる。しかし、それを見た多くの人々が言ったことは、本人と彫像とは似ていないということであった。それに対してミケランジェロは、200年、300年もすれば本人の顔など誰も知らなくなる、と言ったのである。時が経てば、この彫像と本人とが同じになるのである。まさにその通りである。ピエタにしても、マリアさんの顔なんか誰も知らないが、今では美しいピエタマリアさんなのである。また「ダビデ」像にしても、誰もダビデの顔は知らない。造られたダビデ像がそのままダビデであると思うようになるのである。
残るのは何か、と言うことである。その人の生きた姿、人々の中にある存在なのである。そして、後の人がその人を思い出すのは顔ではなく、存在そのものであるということだ。NHKの「あさいち」という番組で。「遺影」について報じていた。生きているうちに、自分の気にいる遺影を作る人が多くなっているという。葬儀の時にその遺影が置かれることを思うと安心すると言われる。しかし、遺影を見る限りその人を思い浮かべるが、それ以外はその人の存在を思い浮かべるのではないだろうか。どんなに遺影が優しく、にこやかな写真であっても、残されるのは存在なのである。あの人は良い人であった、一緒にいると力が湧いてくる、励まされる、そう言う存在でありたいのである。ミケランジェロが私の彫像を作ってくれるとしたら、さて、どんな顔になるのかな。鬼のような顔だったりして。



サン・ピエトロ大聖堂に展示されている「ピエタ」。



ヴァチカンのシスティーナ礼拝堂の天井画。



ミケランジェロの「ダヴィデ」。