鈴木伸治の徒然記

永年の牧師、園長を隠退し、思い出と共に現況を綴ります

隠退牧師の徒然記<192>

隠退牧師の徒然記(2013年7月20日〜)<192>
2013年10月2日「家族みんなで」


聖書の言葉
信仰によって、ノアはまだ見ていない事柄について神のお告げを受けたとき、恐れかしこみながら、自分の家族を救うために箱舟を造り、その信仰によって世界を罪に定め、また信仰に基づく義を受け継ぐ者となりました。
ヘブライ人への手紙11章7節)



 10月を迎え、やはり秋の生活だと思う。もう「猛暑日」という言葉は聞かれなくなっているし、水分補給、熱中症の注意も聞かれなくなった。秋の過ごしやすい季節を迎えているのである。9月28日の土曜日に連れ合いのスミさんと横濱屋と言うスーパーに買い物に行った時、私の出身の大道小学校が運動会を開催していた。小学校時代の運動会を思い出そうとしたが、ほとんど覚えていない。ただ記憶に残っていることは、徒競争ではいつも7番か8番であった。つまりビリと言うわけ。運動会と言えば、やはりドレーパー記念幼稚園在任時代であろう。就任当初は園長が先頭になって、運動会を盛り上げていたように思う。しかし、数年後は体操の派遣講師を置くようになり、その体操の先生がいろいろと盛り上げてくれるようになった。それで園長は役目がないので、写真を写すようになる。その写真もその後は職員が担当するようになり、ひたすら本部席で座っている園長であったのである。運動会の始まりに礼拝があり、そこでお話をしてお祈りすること。運動会の終わりのセレモニーも、園長が感謝のお祈りをする。役目と言えば、大切な役目であるが、それくらいなのである。しかし、子供達が一生懸命に競技や演技を行う姿は、祝福のひとときであると思っていた。中でもハンディキャップのある子供が競技に参加することは、観衆も一体となって声援を送る。感動のひとときでもあった。出番がないわけではない。園児がお父さんと一緒に競技するとき、お父さんが来られない子供には代役として出場する。あるいは双子の場合、もう一人の園児のお父さんの代役になったりすることもあった。楽しい思い出でもある。
 今は運動会にしても、他のイベントは家族ぐるみで参加してくれる。だから準備の時も、片付けの時も保護者の皆さんが率先して手伝ってくれるのである。昔と言っているのは、私が就任した1980年頃であるが、その頃はお母さん達が中心であった。保護者としての役員会は「母の会」と称していたのである。お父さんの影が薄かったと言えよう。そういう時代に「お父さんの集い」を開催したことは意義があると思っていた。知人の園長が父親の会を開催していると言う。父親の会なので、園長が挨拶としてお話をした後は、ビールを飲みながら子供についての話に花が咲くと言うのである。その話がヒントになって「お父さんの集い」を開催したのであるが、ビールは出さなかった。礼拝に続いて懇談会を開いたのである。その頃、園児は180名も在園していたのであるが、出席したお父さんは10名にも満たなかった。それで、その年限りで開催しなくなったのである。収穫は、その「お父さんの会」に出席した一人のお父さんが、礼拝における園長のお話を受け止め、以後ご夫婦で教会の礼拝に出席するようになり、そしてご夫婦で洗礼を受けられたのである。園長のお話と言うより、聖書の言葉に感銘を覚えられたのである。「父親たち、子供を怒らせてはなりません。主がしつけ諭されるように、育てなさい」(エフェソの信徒への手紙6章4節)との御言葉を示されたのである。
 昔の写真、例えば入園式や卒業式の記念写真は、子供たちと共に写真におさまっているのは全員がお母さんであった。それが次第にお父さんの参加がみられるようになり、「母の会」は「父母の会」になり、その後「けやきの会」との名称に推移して行くのである。今では、佐竹和平園長の尽力で「おやじの会」が存在し、いろいろとイベントを開いては子供達を喜ばせてくれている。また、幼稚園の構築物の修繕も請け負ってくれていることはありがたいことである。私の園長退任記念として、欅の木にアスレチックを造ってくれたが、「のぶらはむのいえ」と命名された。その名前を彫刻で彫り、掲げてくれたのも「おやじの会」の皆さんである。家族みんなで幼稚園のイベントに参加する、そういう時代になっていることを喜んでいるのである。
 出身の大道小学校の運動会を車の運転中、横目で見やりながら、ひととき昔を思い出そうとしたが、ほとんど思い出せないので、ドレーパー記念幼稚園時代を思い出したのであった。



2005年のドレーパー記念幼稚園運動会



「おやじの会」が作成した「のぶらはむのいえ」の彫刻文字。
2010年10月に作成される。