鈴木伸治の徒然記

永年の牧師、園長を隠退し、思い出と共に現況を綴ります

隠退牧師の徒然記<185>

隠退牧師の徒然記(2013年7月20日〜)<185>
2013年9月16日「信仰の世界を垣間見る(二)5」


聖書の言葉
あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代まで問うが、わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。
出エジプト記20章4-6節)



 仏教の信仰の世界を垣間見て、少しはそれぞれの信仰を示された。これらの信仰を励ますのが仏像というものである。いろいろな仏像を見ているが、何の予備的な知識を持たないで、ただ見学していたことを告白しておく。従って、仏像の世界も垣間見ておく必要がある。
 仏教の像であるから、開祖であるゴータマ・ブッダの彫像かと思う。しかし、ブッダ自身が形にあらわすことを禁じていた。しかし、後にブッダの教えを広めるためにもブッダの姿を形にあらわしたのである。大体1世紀末頃にはブッダの像が造られたと言われる。そして、仏像はブッダにとどまらず、信仰における仏像が造られて行くのである。仏像には「如来」(にょらい)、「菩薩」(ぼさつ)、「明王」(みょうおう)、「天」(てん)の序列となっている。「如来」は「真理より来たる者」、「真理に到達した者」との意味であり、「釈迦如来」すなわちブッダを指している。しかし、ブッダにとどまらず、拡大解釈していくつかの如来が造られるようになる。それが「阿弥陀如来」である。「南無阿弥陀仏」と念仏をとなえるのは、西方にある極楽の阿弥陀如来への信仰なのである。「薬師如来」がある。病気平癒のご利益を与えてくれる仏様である。「大日如来」は密教の中心となっている。宇宙そのものをあらわす最高位の仏であると言う。
 「如来」の次は「菩薩」である。菩薩は「道を求め、修行している者」の意味であり、もともと修行時代のブッダを菩薩と称している。将来的には仏になる存在が菩薩であり、菩薩は民衆を救済し、さとりへと導く存在であると言われる。まず「観音菩薩」の存在がある。慈悲の力で民衆を救うのだと言う。観音は阿弥陀如来が民衆を救うために姿を変えて現れたとも言われる。「六観音」がある。観音菩薩がいろいろな分野で働くのである。聖観音、十一面観音、千手観音、馬頭観音等がある。「弥勒菩薩」(みろくぼさつ)はブッダの次に成仏することが約束されているとか。実在した人物であると言われている。「文殊菩薩」(もんじゅぼさつ)は学問成就を導く。「三人寄れば文殊の知恵」として知られている。また、原子炉「もんじゅ」としても使われている。「普賢菩薩」(ふげんぼさつ)は慈悲と理知をもたらす賢者である。法華経と女人成仏の守護神として信仰を集めていると言われる。「地蔵菩薩」はおなじみの「お地蔵さん」である。僧侶の姿をもち、六道を輪廻して苦しむ民衆を救い出し、地獄の苦をも変わって受けるのだという。「六道」とは「地獄道、餓鬼道、畜生道修羅道、人間道、天道」であり、人間はこの六道で苦しんでいる。地蔵菩薩が救済してくれるのでもある。「虚空像菩薩」は記憶力獲得の秘術の本尊として知られており、学問成就の利益をもたらすと言われる。
 「明王」の仏像がある。怖い顔をして、救い難い民衆を力ずくで仏の教えに導くのだと言う。「不動明王」、「五大明王」、「愛染明王」等がある。明王如来の手足となって働くのである、更に脇役としての仏像に「天部」がある。それらは「梵天」(ぼんてん)、「帝釈天」(たいしゃくてん)である。これらは神格的な存在で、梵天が釈迦を励ましていたりする。帝釈天はインドの英雄神とされていた。雷神の姿があり、敵や悪魔を退治するので崇められている。「フーテンの寅さん」に登場するのはおもしろい設定であると思う。その他、「吉祥天」、「弁才天」、「四天王」がある。

 最後に「大仏」についても垣間見ておこう。鎌倉には「長谷の大仏」がある。宗派は浄土宗と言われる。与謝野晶子が「鎌倉やみほとけなれど釈迦牟尼は美男におわす夏木立かな」と歌っているが、その通りに美しい顔をしている。いつ造られたのかは不明とされている。奈良の大仏は仏教が伝わってから間もなくの745年に造られている。こちらは大仏殿の中に安置されているので、今後も長く残って行くであろう。この大仏は釈迦ではなく、華厳経に説かれている蘆舎那仏であると言われている。
 この他、仏教を知ろうとすると、その深さ、広さについていけない。わずかながら垣間見てきたが、宗教の世界であり、基本的には人々の救いが目的である。極楽浄土に導くのが仏教なのである。これらの仏像が信仰の対象になっているであろう。実際、散歩していると六地蔵がおかれており、その前に佇んで、手を合わせている人を見かける。
 以上、簡単に仏教の世界を垣間見てきた。参考にさせていただいた本は下記による。
 末木文美士著「日本仏教史」(新潮文庫)、武田鏡村監修「仏教」(新人物往来社)、「入門・日本の仏教」(洋泉社)、加藤精一著「空海入門」(角川ソフィア文庫)、多田・木内著「最澄」(創元社)、五木寛之著「親鸞」上下巻(講談社文庫)、立松和平著「道元禅師」上中下巻(新潮文庫)、栗田勇著「一遍上人」(新潮文庫)、山岡荘八著「日蓮」(講談社文庫)。
 これらは長い時間をかけて読んできたものである。「親鸞」は2012年9月から二ヶ月間、スペイン・バルセロナで過ごしたときに読み、「道元禅師」と「一遍上人」は2013年3月から三ヶ月間、マレーシア・クアラルンプールに滞在した時に読んでいる。「日本仏教史」はマレーシアから帰国してから読みはじめ、6月中には読み終えている。他は「垣間見る」と言うことで7月、8月中に読んだものである。随分と参考になり感謝している。