鈴木伸治の徒然記

永年の牧師、園長を隠退し、思い出と共に現況を綴ります

隠退牧師の徒然記<178>

隠退牧師の徒然記(2013年7月20日〜)<178>
2013年8月31日「信仰の世界を垣間見る 3」


聖書の言葉
聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。今日わたしが命じるこれらの言葉を心に留め、子供たちに繰り返し教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、これを語り聞かせなさい。更に、これをしるしとして自分の手に結び、覚えとして額に付け、あなたの戸口の柱にも門にも書き記しなさい。
申命記6章4-9節)



 「イスラーム」はアッラーを信じる群れと言うことになるが、「自分のすべてをだれかに委ねる」群れと言うことになり、一言で言えばイスラームの世界に生きる人々を「ムスリム」と称している。ムスリムアッラーによって生きるのであるが、社会全体がアッラーに委ねて生きると言うことであり、足並みをそろえてアッラーに向かう。定められた時間にモスクに集まり、一斉に礼拝する姿は、個人と言うより全体主義という印象を持つ。個人の救いより、全体の救いが求められているのである。イスラーム共同体を「ウンマ」と呼ぶのであるが、ウンマを造り上げるのがムスリムと言うことになる。以下の説明を紹介しておく。
 「『宗教』が『迷える一匹の羊』のためにあるとすれば、国家は「残りの九九匹の羊」の安全を考えようとする。仏教やキリスト教は、九九匹を委ねるべき国家を別に持っていたため、一匹のことだけを考えていれば良かった。そのような国家をもたなかったイスラームは自ら九九匹のことも考えなければならなかったのである。このようなわけで、われわれのふつうに理解する『宗教』の領域にとどまらないことを明示するために、イスラム『教』と呼ぶことを避けているといってよいだろう」(東長靖著「イスラームのとらえ方」山川出版社・世界史リブレット)。
 ムスリムアッラーにすべてを委ねる一人の信者であるが、九九匹の羊すなわちウンマの中に居る一人なのである。マホメットすなわちムハンマドは最初からウンマを組織し、その一員であるムスリムを指導してきたのである。その指導書がアッラーから示された「啓典」すなわち「コーラン」である。このコーランも正しくは「クルアーン」である。クルアーンムハンマドが「アッラーの言葉」として示されたものである。その内容も、表現も、すべてアッラーが示したものであるとされている。クルアーンという言葉の意味は、「声に出して誦まれるもの」と言うことである。ウンマを形成するムスリム個人は、このクルアーンの指導のもとに、アッラーに身を委ねて生きているのである。クルアーンは全部で114章からなり、岩波文庫版でも三巻に収められている。クルアーン全体が神の言葉なので、それをもって信仰の基準とすれば良いのであるが、イスラームでは「六信五行」がムスリムが信じ、行って生きることである。
 ここまで学びを進めた時、私はローマ帝国キリスト教へと変えられていく過程が思われてならない。ローマは皇帝以前のカエサルの時代から、ヨーロッパ全域を征服していく。カエサル以後のアウグストゥスが最初の皇帝になる。皇帝は力ある存在として、絶えず諸外国に勝利をおさめ、帝国の安泰を図るのである。従って、帝国に生きる人々は皇帝を「平和の神」、「救い主」とまで称賛するのである。しかし、帝国民は次第に救いは帝国には無いと気づいて行く。帝国の平和のために戦いにかりだされる。高い税金を支払わなければならない。あるいは過酷な労働につかなければならない。これが平和であるか。そこでキリスト教の救い、個人の救済に心が向けられて行くことになる。救いとは国が大きくなることではなく、一人一人が救いの喜びを得て生きることに気がつくのである。その点においてイスラームキリスト教は異なるのである。九九匹なのか一匹なのか。救いの対象が異なるのである。
 そこで九九匹のムスリムが「六信五行」に従って生きることになる。「六信」はイスラームに生きる人々、ムスリムの世界観をあらわしていると言われる。ムスリムは(1)アッラー、(2)天使、(3)使徒、(4)啓典、(5)来世、(6)神の予定、これらを信じなければならないのである。大筋においてキリスト教に通じる考え方である。神、アッラーは天使を通じて御心を人間に授ける。そして使徒によって正しい道を与えるのである。使徒はアダムから始まり、ノア、モーセ等313人も居る。その中にイエスもおり、ムハンマドは最後の使徒預言者であると言われる。その使徒によって与えられたものが「啓典」である。新約聖書福音書も啓典である。しかし、最後にムハンマドに与えられたコーランクルアーンこそ大切なのである。これらの使徒によるアッラーの教え、警告にもかかわらず、悔い改めない者もいる。そこでアッラーは終末を与えるのである。その時、最後の審判がある。天国、地獄へと振り分けられるのである。これらはアッラーの予定ということになる。これが「六信」である。この世界観をしっかり持って、ムスリムの一員となり、共同体のウンマを形成するのである。
 次に「五行」をみる。五行は「行」とあるように、実践することなのである。その第一は「信仰告白」である。「アッラー以外に神はないと告白します」と口に出して唱え、「ムハンマドアッラー使徒であると告白します」と言うことが信仰告白である。五行の第二は「礼拝」である。礼拝と言えば、キリスト教では日曜日の午前にささげることで信者の証となっている。しかし、イスラームは週に一度ではなく、毎日のことであり、それも一日に五回、メッカのカアバモスクに向かって礼拝する。時間も定められている。しかし、その時間は大切な業務に携わったり、手が離せないことに関わっている場合もあるだろう。そのような場合は、時間が取れた時に礼拝をささげれば良いようである。戒律が厳しいといっても、猶予はいくらでもあるということである。五行の第三は「ザカート」である。日本語では「喜捨」と訳せるそうであるが、仏教的であるので日本語ては言わない。「行」としては「ささげる」ことなのである。財をささげ、共同体が共に喜ぶことである。キリスト教の原始教会時代、主を信じる人々は財をささげて主の群れのためとしている。「信者達は皆一つになって、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売り、おのおの必要に応じて、皆がそれを分け合った。そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた」(使徒言行録2章44-47節)と記されている。イスラームでは「福音書」は啓典の一つであるが、使徒言行録の記録等もザカートに影響を及ぼしているのではないかと、これは私見であるが思わされている。
 五行の第四は「斎戒」である。心身を清らかにするということであるが、「行」としては断食をすることである。この断食は食欲ばかりではなく、人間のあらゆる欲望を断つことなのである。断食ついては「ラマダン」として、よく聞く言葉である。2013年は7月10日から8月7日までである。この期間、全く食べないというのではない。食べなかったら死んでしまう。日没から日の出までの間(=夕方以降から翌未明まで)に一日分の食事を摂るのである。この食事はふだんよりも水分を多くした大麦粥であったり、ヤギのミルクを飲んだりする。旅行者や重労働者、妊婦・産婦・病人、乳幼児など合理的な事情のある場合は断食を免除されるなど、ひと口に「断食」と言ってもその適用範囲にはある程度の柔軟性と幅を持つ点にも注意が必要である。この期間にオリンピックが開催されることがあり、出場選手は苦労するようである。
 そして五行の最後は「巡礼」である。巡礼はメッカの聖地に決められた日に行くことである。一生に一回の巡礼で良いとされている。しかし、それぞれ生活があり、行かれない人もいる。それはそれで良いのだそうだ。要するに巡礼を願いつつ歩むことなのである。その姿勢も「行」となるようである。
 イスラームにおける六信五行を示されたが、これらを守りながらイスラーム共同体(ウンマ)に生きる人々(ムスリム)なのである。この生きる姿勢に戒律が加わってくる。それらの戒律と現代社会に生きる人々を見なければならない。気になる「イスラーム原理主義」なるものも見ておく必要があるだろう。