鈴木伸治の徒然記

永年の牧師、園長を隠退し、思い出と共に現況を綴ります

隠退牧師の徒然記<162>

隠退牧師の徒然記(2013年7月20日〜)<162>
2013年7月22日「原点に戻される」


聖書の言葉
そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。(マタイによる福音書7章24節、25節)



 7月21日の礼拝は三崎教会の講壇に立たせていただくことになっており、赴くことになる。三崎教会には車で向かうが、夏休みに入り、三浦方面は混雑するだろうからと、午前8時30分には家を出る。礼拝は10時30分からなので2時間もあれば、渋滞しても十分間に合うだろうと思った。横横道路を朝比奈インターから入り、衣笠で降り、引き続き三浦縦貫道に入り、林に抜けるのである。そこから一般道の134号線で三崎に向かうのである。途中、油壺、城が粼、剣先方面があり、観光客が訪れるのであるが、夏休みともなれば混雑することは当然である。しかし、この時間、まだ早いのか、比較的流れが良く、三崎教会には9時30分についてしまったのである。礼拝開始まで1時間もある。しかし、礼拝前の教会学校掲示板等を見て教会の取組みを示されるひとときになったのである。
 やがて順次皆さんが教会にやってくる。私を見ては皆さんが一様に「おかえりなさい。お疲れになりませんでしたか」と言われるのである。マレーシアからは6月4日に帰国しているので、もはや一ヶ月以上も経ており、あまり実感がわかないご挨拶をいただいたのであるが、教会の皆さんがお祈りしてくださっていたことを示され、心から感謝したのであった。この日の三崎教会での講壇については4月に決められたことであった。マレーシア・クアラルンプール在任中であり、4月7日に三崎教会から説教依頼のメールをいただく。役員会中であるというので、すぐに受託の返信を送ったのである。メールとは誠に便利なものである。
 礼拝後は皆さんと歓談し、そして青山教会員の山田満枝さんと例のお寿司屋さん「豊漁」に行く。「例の」と言うのは、山田さんにご案内いだいて、そのお寿司屋さんでご馳走になったことについては、既に以前のブログで記しているのである。山田さんは月に一回は青山教会に出席されている。電車を乗り継いで三浦半島の三崎から東京の青山まで行かれるのは大変であろうと思う。その山田さんには以前、説教集「最初の朝餐」を差し上げてある。山田さんはその説教集を青山教会の牧師に渡されたと言われる。そして、娘の羊子がスペイン・バルセロナでピアノの演奏活動をしていることもお話されていると言われるのである。



食事後はマホロバ・マインズでお茶をいただきながら
マレーシアの写真を見ながら歓談する。


 おそらく山田満枝さんが、はからずも三崎教会で、以前青山教会で副牧師であった鈴木伸治牧師とお会いしていることが参考になったのかもしれないが、20日の土曜日に青山教会の牧師から電話をいただくことになるのである。11月3日の礼拝説教者として私を招きたいとのことであった。かねがね青山教会には訪れたいとの思いがあったので、私はその電話ですぐに受託する。さらにこちらから申し入れたのであるが、その日に娘の羊子のピアノコンサートを開いていただきたいとお願いする。その件については役員会で検討するとのことであった。
 青山教会は私が最初に伝道者として赴任した教会である。神学校を卒業し、青山教会に伝道師とお招きいただいたのである。それはまた私達夫婦の生活の始まりでもある。生まれた羊子も星子も、当時の主任牧師である宮内彰先生から幼児洗礼を授けていただいたのである。伝道師、後に副牧師になるが、教会学校に関わり、青年達との交わりが私の役割であった。さらに事務仕事も副牧師の務めでもある。その頃、私は30歳から34歳頃であり、40代の山田満枝さんと出会ったのである。お仕事を持ちながら、教会では会計の職務を担っていたと記憶する。昔、教会学校に在籍していた皆さんが、今では役員になられていると言われる。青山教会は私にとって伝道者の原点なのである。その原点に戻されることを感謝したい。