鈴木伸治の徒然記

永年の牧師、園長を隠退し、思い出と共に現況を綴ります

常夏の国にて<75>

マレーシア・クアラルンプール滞在記(2013年3月13日〜6月4日)<75>
2013年6月4日「常夏の国を後にする」(完)



 いよいよ帰国である。6月3日は荷物整理と牧師館の掃除である。こちらに向かう時は、滞在中の食糧関係があって結構な荷物になった。帰りは大きなお土産も無く、かさばるものも無い。二人で80キロの荷物なので、余裕があると思った。ところがカバンに詰め込むと結構な荷物になり、持って帰ろうと思ったA4のコピー用紙500枚入りの包を置いて行くことにした。間違えて上質の用紙を買ってしまったので、持って帰りたかった。ようやく荷物をまとめ、牧師館の掃除をし、最後の夕食をしたのであった。結局、屋台村には羊子がいる時だけ一緒に行っただけであり、夫婦では一度も行かなかった。日曜日の礼拝後に皆さんと食事をするため、いろいろな食事処にご案内いただいたり、教会員の皆さんにおもてなしをいただいたりした他は、私たち二人だけでは外食はしなかったのである。もっとも赴任後はいくつかの店で食べている。むしろ外食するより、牧師館で夕焼けを見ながらの食事を喜んでいたのである。
 4日は午前11時30分に諸江修さんが迎えに来てくださることになっている。その前にスミさんは、例の庭を管理する女性と、同じ牧師館の七階に住んでいるマレーシアの若い女の子達を待っていた。声をかけておいたのである。庭を管理する女性が訪ねてくれた。スミさんは記念になるものを差し上げている。ぬいぐるみの動物人形も。若い女の子たちが来ないので、こちらから出向いて行く。そこに住む若い女性とは3月30日に知り合いになっている。KL市内見物をして、バスで帰って来たのであるが、羊子と共に、このバスが我々が住むコンドミニアムの近くに行くんだろうかと不安げに話していると、後ろの席にいた若い女性が日本語で話しかけてくれたのである。同じコンドミニアムの中に住んでいたのである。時々、その女性と外で会うことがあった。その時、私達は6月4日に帰国することをお話しておいたのである。二、三日前にその女性、フィガさんが牧師館を訪ねてくださり、マンゴーの果物をくださった。私たちが帰る日にはフィガさんは自宅に帰っており不在であったが、同居している友達二人にスミさんが食べ物等をあげたりしていた。私は持って行かれないA4コピー用紙をフィガさんに差し上げたのである。彼女には名刺を渡しておいた。もしかしたら日本に来るかもしれないのである。そのために今、日本語を勉強しているのであった。



庭の管理をする女性が牧師館に来てくれた。
お友達になれて、ありがとう。



知り合いになったフィガさんは留守であったが、
お友達に食べ物等を差し上げる。
私はA4の上質コピー用紙を。


 さて11時30分になり、諸江修さんが牧師館まで上がってきてくださり、荷物を運ぶのをお手伝いくださった。大きなトランク二つと、更に小さめのキャリーケース三つもある。荷物を積み込み、いざ発車しようとするとスミさんがいない。ふと見ると、スミさんはゲートの係り員に、お礼としてお菓子を渡しているのである。このゲートは歩行者用の出入り口がある。しかし、そこは階段で、スミさんはそこを通過するのが大変であった。それを知ったゲートの担当者が、スミさんを見かけるとゲートを開けてくれて、階段を上り下りしなくても良かったのである。いつも「サンキュー」と言いながら、杖をつきつき開けられたゲートの道を歩いていたのである。いっぱいお礼を言いたかったのであるが、それをお菓子に託したのであった。



ゲートの担当者に親切にしていただく。


 一時間もしないでエアアジアの空港に着く。手続きをすると荷物が重量制限を超えていた。荷物を軽くするか、そうでなければRM50 を支払うことを求められる。もちろん支払う。諸江さんには羊子のチャペルコンサートを含めて、本当にお世話になる。心からお礼を申し上げてお別れしたのであった。午後2時30分のフライトであり、夕食が付けられていた。スミさんが言うにはとても美味しい夕食であった。午後10時30分に予定通り羽田空港に着く。フライト中、客室乗務員がスミさんが杖をついて歩いているので、羽田空港に車椅子を要請してくれた。従って、羽田空港で飛行機から出口までの長い長い道のりを歩く労は解消された。
 私達の子供、百合子が迎えに来てくれていた。羽田から自宅まで車で1時間くらいである。家に帰ったら、まずお風呂に入ること、もはや夜中の12時を過ぎていたがカツオのお刺身、お豆腐等、日本的なものをいただきながら食事をする。大きく息を吸い、終了を感謝する。




家に帰ると、庭は草ぼうぼうであったたが、
きれいな花もあちらこちらに咲いていた。