鈴木伸治の徒然記

永年の牧師、園長を隠退し、思い出と共に現況を綴ります

常夏の国にて<48>

マレーシア・クアラルンプール滞在記(2013年3月13日〜6月4日)<48>
2013年4月29日「道を求める人々」



 昨日も記したが、今回のマレーシア・クワラルンプール日本語キリスト者集会のボランティア牧師就任にあたり、読書の時間は十分あるだろうと、新潮文庫立松和平著「道元禅師」上中下巻を持参している。当初はゆっくりと読んでいたので、4月中旬になってもまだ上巻であった。それでペースを速めて読み進めるうちにも中巻、下巻に達し、ついに本日読破することになった。今日は昼食を食べても天気が良く、スミさんがプールに行く。いつもはお昼頃から雲行きが悪くなるのである。例によって一緒についてゆき、プールサイドで読むこと40頁、ついに読み終える。かなりの分量なので読み応えがあったと思う。
 これは小説であり、道元禅師の史実を記すものではない。立松和平さんという小説家がとらえた道元禅師の一生なのである。物語は常に「右門でございます」と物語の運び手が登場する。「右門」という人物は鎌倉初期、京都の摂関家・松殿藤原基房の従臣であり、内室の忠子に仕える者である。この夫婦の娘が伊子であり、伊子は村上源氏の流れを汲む名門家の歌人・久我通具の妻となる。その夫婦に生まれた子供が道元であり、瞳が二重の「重瞳の子」であったことから、天下人か大聖人になるとの予言を受ける。道元の母・伊子は道元がまだ幼少の頃に他界するが、道元を天下人ではなく、仏道の世界に進ませるよう遺言する。伊子の遺言を真実受け止め、祖母の忠子が比叡山へと送るのである。そして、自分に仕えていた右門を道元の従者として送り出すのである。右門は道元より30歳も年上である。物語はこの「右門」が道元に仕えて共に歩み、修業から成長の過程を報告していくのである。幼少のうちに母を失った道元は、人間のはかなさを知り、真実の道を求めて栄西、その弟子・明全に指示するが、正法を求めて宋へと向かうのである。宋の天童寺で念願の師・如浄和尚に出会い、修業に励むのである。そして、修業するうちにも心身脱落の境地を得て、嗣書を授かり、印可を受けたと言われる。このあたりのことは良く分からないが、奥義に達したということなのだろう。帰国するが、比叡山の迫害を受け、越後の国に退去することになる。そこで永平寺を建立し、日本曹洞宗の開祖となるのである。法然はただ念仏を唱えることで救われると説いた。道元の場合は、座禅を重ねるほどに救いの道が開かれると説いたのである。そして、座禅を重ねるうちにも、仏法を持って生きることを示し、結構細かい決まり事を守るように示している。面白いと思ったのは、歯磨きである。昔であるから歯磨きなどはない。しかし、口の手入れ、歯の手入れをしないと口臭がはなはだしい。それで爪楊枝で清掃するのである。尖った方ではもちろん歯垢を掃除するが、反対側は噛み砕く。すると小さな箒のようになる。その箒で歯を念入りに磨くことを教えている。それも何回も水でゆすぎながら歯の清掃をするのである。経を唱える者が、人が嫌うような口臭ではいけないと言うのである。それから糞尿の仕方まで仏道として教えている。用を足したなら、念入りに清掃すること、その清掃の仕方まで教えているのである。



立松和平著「道元禅師」


 立松和平さんは、道元禅師を毎月20頁くらいの速度で書きすすめたと言われる。巻末に参考文献の一覧があるが、一つ一つ紐解きながら確認し、ようやくペンをとってもなかなか進まないのである。そして、9年を経てようやく完成されたと「あとがき」に記している。その立松和平さんが道元禅師との出会いを記している。「生きて死ぬことが私たちのさとりであるが、生も死も隠されているわけではなく、露わだ。全宇宙で隠されているものは塵ひとつさえなく、すべてが私たちの目の前にある。過去も過ぎて消えてしまったのではなく、未来はいまだ現れず見えないのではなく、すべてがこの今に現成されている。人が認識しようとしまいと、ここにすべてが厳然としている。すべてが露わになっているのに認識できないのは、認識できない私たちの問題に過ぎない」。これが道元禅師の思想の根幹であると立松和平さんは言われる。座禅は「私たちの問題」に向きあうことだと、言われているのである。宗教者の根本を示された思いである。自分を無にして、頭をたれ、神様に向かうこと、座禅に通じる姿である。