鈴木伸治の徒然記

永年の牧師、園長を隠退し、思い出と共に現況を綴ります

常夏の国にて<49>

マレーシア・クアラルンプール滞在記(2013年3月13日〜6月4日)<49>
2013年4月30日「朝の知らせ」



 今日は火曜日で婦人会が開かれる。今日の婦人会はお仕事会なので、行かなくても良いのである。しかし、昨日も連れ合いのスミさんから、一緒に行くことを勧められる。いろいろと経験しておきたい気持ちがあるので、そのつもりでベッドに横たわり、朝を迎えた。いつも朝の7時に目覚まし時計をセットしてある。こちらでは朝の7時頃、ようやく明るくなってくるのである。夜は午後8時頃まで明るい。だから、いつも夕陽が落ちて行くのを見ながら夕食をとるのである。朝、目覚ましを7時にセットしてあり、目覚まし時計は音楽で知らせてくれるが、すぐには起きないで、しばらく横になったまま、今日の予定を考えたりしているのが常である。ところが、今日は目覚ましが鳴ってから間もなく牧師館の電話が鳴る。もしかしたら、今日、婦人会があるので、迎えに来てくださるラジ洋子さんかも知れないと思いつつ受話器をとる。電話は日本からで、百合子からであった。私の姉・朝子の訃報であった。朝子はいつも元気なので、思わずその知らせを疑ったのである。百合子は従姉妹の恵子から知らせをもらったのである。恵子は姉、清子の子供である。長姉の美喜子は既に天に召されているが、二番目の姉・清子、三番目の姉・朝子、そして亡くなってはいるが兄の光政、私は五人兄弟の末っ子になる。美喜子と光政は既に天に送っているが、残る三人の兄弟として連絡し合っていたのである。朝子の訃報を名前の通り、朝に連絡をもらうとは。というわけで、今日の婦人会には、私は参加しないことにして、連れ合いのスミさんだけがラジ洋子さんの車に乗せられて行ったのである。百合子から電話を受け、その後は私の方から姉の清子に連絡する。清子も朝子の連れ合いである�癲橋さんに電話をしていない。というのは、朝子はこの朝に風呂場で倒れていたと言うのである。だから警察による検死があるだろうし、今は電話を出来ないということであった。私もお昼頃には�癲橋さんに電話したいと思っているのである。そのため、今日の婦人会は失礼することにしたのであった。今日は婦人会での牧師のお務めがないことが幸いしている。
 百合子から電話を受け、私の方から姉の清子に電話をする。姉はもちろん私が今、マレーシアにいることは知っているので、こちらの様子などを尋ねていた。しかし、姉の清子自身もこの朝に転倒し、顔面を打撲したと言うのである。息子の義雄が近くに住んでいるので、病院に連れて行ってくれるそうである。姉の清子は80歳になっている。連れ合いを天に送り、娘の恵子、息子の義雄はそれぞれ結婚して家庭を持っている。高齢になりつつある姉に、一緒に住むことを提案しているが、姉は一人で生活しているのである。私たちの父は97歳で亡くなったが、その頃、一人で生活することが多かった。姉の美喜子がリュウマチを患い、いろいろな病院で入退院を繰り返していたのである。そう言う中で、父は一人で生活していた。いよいよ入院したが、三ヶ月で亡くなるのである。最後まで頑張った父の生き様は私たちの見本でもある。がんばって、がんばって人生を生きること、父が教えてくれたのである。
 姉の朝子については、改めて記すことにしよう。とにかく朝子は元気に生活していると思っていたのである。連れ合いの�癲橋さんとはいつも旅行を楽しんでおり、時には清子も誘われ、一緒に旅行をしているのである。�癲橋さんは若い頃は登山家であり、姉の朝子も結構連れられて登山をしている。生まれた子供は「剣」(つるぎ)と命名している。剣岳を示されているのである。その朝子は79歳になっている。私は73歳であるが、朝子との間に兄の光政がいるのである。美喜子も清子も、そして私もキリスト教で生きる者になったが、朝子は朝子の道を歩んでいた。むしろ両親の浄土真宗の信仰を大切にしていたようである。六浦の家が建て替え前の頃は、仏壇があったので、いつも線香を立てては、両親に話しかけながらお参りしていた姿が思い出される。朝子には申し訳ないと思っていることは、家を建て替えて仏壇を作らなかったことである。だから朝子は新しい家には足を向けなかったと思うのである。仏壇を作らなくても両親、美喜子、光政の写真は飾っているのであるが。朝子の写真も飾ることにしている。


この日に開かれた婦人会のお仕事会。
連れ合いのスミさんが参加する。
ラジ洋子さんに送迎していただく。