鈴木伸治の徒然記

永年の牧師、園長を隠退し、思い出と共に現況を綴ります

「隠退牧師の徒然記」<158>

隠退牧師の徒然記(2013年2月1日〜)<158>
2013年3月11日「移り行く街並を見つめつつ」



聖書の言葉
世界中は同じ言葉を使って、同じように話していた。東の方から移動してきた人々は、シンアルの地に平野を見つけ、そこに住み着いた。彼らは、「れんがを作り、それをよく焼こう」と話し合った。石の代わりにれんがを、しっくいの代わりにアスファルトを用いた。彼らは、「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」と言った。
(創世記11章1〜4節)




 昨日3月10日の礼拝は横須賀上町教会に赴く。礼拝の講壇に立たせていただき、聖餐式を執行する。この日は横須賀上町教会の附属めぐみ幼稚園の卒園式が午後2時から、礼拝堂を会場にして行われるので、礼拝後はその準備となる。いつもは礼拝後、しばし愛餐会が開かれ、お交わりの時があるのであるが、今回はゆっくりもしていられないのである。そのため、礼拝後、帰ろうとすると、お菓子のお土産をいただいたのであった。この日は、私達にとっても愛餐会が開かれない方が良いと思っていた。というのは、3月13日にマレーシアに赴くので、私達の子供達の他に知人が三人、横須賀上町教会の礼拝に出席したのである。だから、礼拝後は食事を共にする予定であったのである。そんなわけで、いつもは私の車一台に五人が乗って赴いていたのであるが、更に三人が乗ることになるので、百合子の軽自動車と二台で行く。知人の三人は直接教会に来られたが、帰りはその三人を載せて食事どころに行くからである。




葉山にあった釜めし屋さん。



鈴木家の墓がある寺。



 それで食事処であるが、葉山にある釜めし屋さんに行くことにしていた。葉山であっても、横須賀寄りにあるので遠い距離ではない。この釜めし屋さんには、思いだす限り、結構出向いている印象がある。墓参りの帰りには寄ることが常だった。姉美喜子の埋葬式をお寺の鈴木家の墓地で、清水ヶ丘教会の島田勝彦牧師の司式で行う。姉が両親と共に埋葬してほしいとの遺言があり、お寺の和尚さんにお願いしてキリスト教の埋葬式をしたのである。和尚さんは理解してくれたが、讃美歌はうたわないでほしいということで、島田先生は参列者で讃美歌をうたう代わりに詩編を唱和したのであった。私の二番目と三番目の姉たち、そして私達夫婦が参列したのである。そして、帰りに釜めし屋さんにより、食事をしたのである。その時、私がビールを飲むなんて言い出したものだから、二人の姉と連れ合いの三人の女性たちから痛く叱られたこと、島田先生がその状況を眼を細めて笑っていたことについては、以前にもブログに記している。釜めし屋さんのいろいろな思い出があるが、忘れられないことであった。ところで、その釜めし屋さんに行くと、駐車場には車が一台もとまってなく、もしかしたらとの思いがよぎる。入口は閉鎖されていた。改装のため、しばらく閉鎖するということであった。誠に残念という他はない。それで金澤八景のダイエー店の中にあるとんかつ屋さんで食事をすることにしたのである。
 ダイエーに向かう途中、鈴木家の寺に寄り、25年度の檀家護持費を支払う。信者であった両親はいないが、鈴木家の墓がある以上、墓檀家ということであり、護持費を納めるのは義務なのである。三ヶ月間外国に行ってしまうので、この時に収めたのであった。そして、二台の車はダイエーに向かう。内川橋付近に「びあら」という食事処があったが、昨年の暮れに閉鎖されている。その「びあら」にも何回か足を運んだのでいろいろな思い出があるのである。2010年8月に横浜本牧教会がチャペルコンサートを開催し、羊子のピアノ演奏会が行われた。演奏会には大塚平安教会時代の皆さんもご出席くださっている。演奏会が終わり、もはや夕刻であり、お出でくださった知人数人と共に、この「びあら」で食事をしたのである。この店も閉鎖され、新しい店になるとか。我々にとっても、また新しい歴史が築かれるのであろう。
 金澤八景駅前の開発は日々進められている。いずれは生まれ変わった駅前になるのであろう。移り行く街並を見つめながら、その時代に生きる自分を示されている。