鈴木伸治の徒然記

永年の牧師、園長を隠退し、思い出と共に現況を綴ります

「隠退牧師の徒然記」<150>

隠退牧師の徒然記(2013年2月1日〜)<150>
2013年2月22日 「寄留の民をかえりみよと」 


聖書の言葉
あなたたちの神、主は神々の中の神、主なる者の中の主、偉大にして勇ましく恐るべき神、人を偏り見ず、賄賂を取ることもせず、孤児と寡婦の権利を守り、寄留者を愛して食物と衣服を与えられる。あなたたちは寄留者を愛しなさい。あなたたちもエジプトで寄留者であった。
申命記10章17〜19節)



 2月15日に二つの委員会があり、一つは「神の庭・サンフォーレ」を支える会協力委員会であり、午後5時から開催された。その委員会に関連して、前回のブログは「神の庭・サンフォーレ」の今日に至る経緯を記しておいたのである。その委員会の前の午後2時からは神奈川県民センターでシルバさん家族支援委員会を開催する。委員会は大塚平安教会で開催しても良かったのであるが、私が横浜市金沢区であり、そのために中間の場である県民センターにしてくれたのである。県民センターの8階にはボランティア・ミーティングフロアーがあり、テーブルと椅子が置かれているので、ボランティア関係の皆さんが自由に使えることになっている。
 シルバさん家族支援については、これまでも幾度となく触れてきた。今回はその後のことに触れておくのであるが、一応、これまでの経緯を記しておこう。シルバさん家族に出会うのは、お子さんのへシャン君やメヌシャちゃんが順次ドレーパー記念幼稚園に入園したことによる。メヌシャちゃんが在園中にお父さんのシルバさんが相談に来られる。最初は良く分からなかったのであるが、私がシルバさん家族の保証人になることであった。それで東京入国管理局横浜支部に赴き、彼らの仮滞在保証人になったのである。シルバさん達はパスポートで来日しているが、既に滞在期間の三ヶ月は過ぎている。いわゆる不法滞在であり、ビザもないのに就労していたことも取り締まりの対象になったのである。今までの社宅から出なければならず、働くこともできなくなったことで、彼らを支援する組織を立ち上げたのである。まず、スリランカ人として難民申請を提出する。その時点ではスリランカの内戦が続いていたが、その後は内戦が終わり、国際的には平和を取り戻したことになる。難民申請は却下されることになる。そのため、異議申し立て書を提出していたのである。提出してから1年以上も経過したが、2013年1月22日に審査結果が申し渡されることになった。保証人でもある私も横浜入管に来るよう案内がある。当日はシルバさん夫婦と共に二人の子供達も呼び出されたのであった。いよいよ運命の日であると思った。異議申し立てが認められればビザが発給される。しかし、認められなければ強制送還ということにもなりかねないのである。



2012年3月25日、シルバさん家族が六浦谷間の集会の礼拝に出席する。



食事後、洗い物をしつつ歓談。



玄関で記念撮影。




 シルバさん家族の仮滞在保証人になった頃は、横浜入管は横浜市中区にあった。マリンタワーの近くである。しかし、その後、新しい建物が造られ転居している。新しい場所はシーサイドラインの南部市場で降り、そこからバスで行くのである。海辺の近くになったようでもある。そこに10時に来られたしということで赴く。私が入管に着いてから、ほどなくしてシルバさん家族も到着する。待合室で待つうちにもシルバさん夫婦が呼ばれ、面接室に入って行った。1時間30分はかかったと思う。一度、部屋から出てきたが、再び呼ばれて面接室に行く。合わせて私も別の部屋に呼ばれる。結局、シルバさん達の難民申請却下に対する異議申し立て申請は棄却ということになる。ということはスリランカに強制送還になるのであるが、最後の道が残されているのである。裁判に訴える道が残されているということである。そのために六ヶ月の滞在猶予があり、そのために改めて私が仮滞在の保証人になる事であった。入管としてはその予定であったので、私に印鑑をもって来るようにと要請したのである。
 その手続きをして待合室に戻ると、大塚平安教会の菊池丈博先生、古屋紘子さん、小室きよみさんが心配しつつおられたのである。これまで難民申請と共に1000名の署名簿を添付したり、異議申立書に対してはみなさんの嘆願書を添付したのであった。いずれも却下され、残されている道は「裁判」である。岩井弁護士がいくつか助言してくれているが、なかなか厳しい残された道なのである。彼らの子供がドレーパー記念幼稚園に入園したときから、神様のお導きがあったのであろう。与えられた使命として取り組んでいるのである。