「受難の門を見つめつつ」・バルセロナ滞在記<48>
「受難の門を見つめつつ」・バルセロナ滞在記(2012年9月10日〜11月6日) <48>
2012年11月1日「モンジュイックの丘」
バルセロナ滞在中に見ておきたいところは、海洋博物館とミロ美術館であると羊子に告げたので、羊子は10月25日に海洋博物館に連れて行ってくれたことは既に記している。今日はミロ美術館を見学した。ミロ美術館はモンジュイックの丘にあり、この岡の上には民族博物館、考古学博物館、カタルーニャ美術館、オリンピック・スタジアムが建てられており、市民の学習と憩いの場であると共に、多くの観光客が訪れるところである。高台にあるのでバルセロナの街が一望できる。ミロ美術館に着いたとき、やはり大勢の人が並んでいた。家からは車椅子で来なかったので、美術館を見学するに当たり車椅子を借りることになった。するとすぐに入場することができて、暑い日差しの中で待たなくても済んだ。今日は寒波が過ぎて暖かい日なのである。ローマ等では車椅子であると介護者と共に無料となるが、こちらでは無料にはならない。一般は10ユーロであるが、65歳以上は7ユーロである。その恩典には与ったわけである。ミロの芸術についてはほとんど知識が無い。画集で見た作品は、見学しているうちに思い出す。美術館に入って、最初に見学したところはミロ以外の芸術家の作品であった。その中に日本の作家のものが展示されていた。ミロに因んで新芸術と言うのであろうか、なんだか分からない作品を見ることになる。女性が髪の毛に塗料をつけて、這いずり回りながら作品を仕上げているビデオが放映されていたが、こういう芸術もあるのだと示される。次にミロの作品を見学するが、何が表現されているのか分からないのである。
美術館の屋上からはバルセロナの街並が一望できる。
案内書によりミロを参照しておく。ジョアン・ミロは1893年にバルセロナで生まれた。14歳のとき、商業学校に入学するが、ピカソも通ったと言うリョッジャ美術学校に行き、絵の勉強を始める。その後、ミロは腸チフスにかかり、両親が所有するタラゴナのモンロッチで療養する。療養後バルセロナに戻ったミロは美術学校に入り、絵画だけではなく音楽や詩を学び、同時代の芸術に触れ、感触が深められていく。その通っていた聖ルカ美術組合でガウディと出会うことになる。1983年12月、ミロは1956年から住んでいたパルデ・デ・マヨルカで亡くなる。その遺骸はモンジュイックの墓地に埋葬され、彼の愛したカタルーニャの海を眺めていると言う。「財団のタペストリー」、「少女の肖像」、「絵画(白い手袋)」等は美術本で見たような気がする。いろいろなオブジェが展示されているが、思わず笑ってしまう作品である。
美術館を出て、オリンピック・スタジアムによる。付近全体が運動公園になっているようだ。壮大なスタジアムを見るが、日本にいるときでもスタジアムには出かけていないので比較することはできないが、こんなに立派なスタジアムは日本にはないと思われる。1992年にバルセロナ・オリンピックが開催され、メイン会場となっている。現在はいろいろなスポーツ競技が行われている。競技が行われていなければ無料で見学することができる。なにしろこちらは土地が豊かであり、広々とした施設を設けることができるのである。東京オリンピックを誘致しようとしているが、狭い東京で、そのため遠くの施設に移動するのであろうが、なかなか大変であろうと思う。モンジュイックの丘を楽しむことができた一日であった。
今日は夜になってホアキンさんが私たち夫婦をお別れの夕食にお誘いくださっている。ホアキンさんとは、これまでも何かとお交わりいただいているが、私たちが帰国するに当たりお招きくださったのである。羊子と共に出かけるが、マルガさんも来られていた。ホアキンさんは、いろいろな人を呼ぶと私たちが疲れるだろうからと気遣い、他の人は呼ばなかった。夕食はホアキンさん自身が料理してくださっている。イカ墨パエリアには大きな海老が入っている。なかなか高価で手に入らないと言われる。さらに鶏肉とキノコの煮込みが出される。これらのお料理を作るために、わざわざ高いお鍋を購入されたと言う。食事をしながら、「羊子がピアノと言い、また人格的にもすばらしいので、そのように育てられた両親を尊敬しています」との過分なお言葉をいただいたのであった。82歳になられるホアキンさと羊子の出会いを心から感謝している。
ホアキンさんにお招きを受け、夕食をいただく。
ホアキンさんとスミさん。楽しく歓談しつつ。