鈴木伸治の徒然記

永年の牧師、園長を隠退し、思い出と共に現況を綴ります

「受難の門を見つめつつ」・バルセロナ滞在記<29>

「受難の門を見つめつつ」・バルセロナ滞在記(2012年9月10日〜11月6日) <29>
2012年10月8日「パズルを楽しむ」




 昨日の夕食後、パズルを出して楽しんだが、楽しむどころではなく、苦戦したということである。このパズルは日本から持ってきたのであるが、かなり頭を使う。木のピースが六つあり、それらを組み合わせて見本の形にするのである。ところが、思うように組み立てることができない。結局、昨日は誰もできないで、なんとなく割り切れないで就寝する。このパズルは、以前、三浦半島にあるマホロバホテルの部屋に見本としておいてあった。一人で挑戦出来るので、面白いパズルであり買い求めたのであった。いくつかの種類を買い求め、まだ開けてないパズルがあったので持参したのである。
 今日は羊子が出かけて行き、私もしばらくパソコンに向かっていたが、気持ちの切り替えのためにもパズルに向かう。思考錯誤しながら組み合わせているうちに、何とか十字架やハウス等ができるようになった。今のところ四つの形ができるようになる。書き留めておいた。後でみんなに自慢するためである。昼食後、みんなの前で形を作って見せると、驚いて喝采をしてくれた。大人でも楽しめるパズルである。
 苦戦しつつパズルのピースを組み合わせていると、思考の変換が求められる。このような形は、このように組み立てる、そのような固定観念があり、だから組み立てることができないのである。このピースを縦にするとか斜めにするとか、固定的観念を取り去ることにより、目が覚めるような思いで出来上がるのである。このピースがこんな場所になることによって、求められている形になる。固定観念が生活の中で負になっていることをつくづく示されるのである。だから、固定観念を取り去ることであるが、長年、私の中で支配しているので、思考の変換は困難でもある。しかし、思考の変換は必要なことである。



パズルに挑戦するスミさん。


 固定観念は長年の経験から培われてくる。同じような体験は同じような結果を生むことで、このような場合はこうなると思い込んでいるのである。また、固定観念は複数の人が同じことを証言する場合に、自分の固定観念になってしまうこともある。必ず同じ失敗をする場合にも、それは経験で示されているように、同じ失敗は繰り返さないということになる。また、自分の体験でなくても、学習により固定観念が出来上がっていく。
 固定観念は正しい場合もあるが、負の場合もありうる。そうであれば固定観念に支配されないような生き方が必要なのである。今、自分の前に置かれている状況を、自分を無にして受け止められるか、ということになる。無になること、出来ないし、無になることが恐ろしくもある。目に写ること、耳に聞こえた瞬間に固定観念が働き始めているのである。しかし、固定観念が働いたとしても、思考の変換はできる。少しずつ固定観念をずらして行き、思考の変換をしていく。それにより、新しい局面を迎えることができる。
 聖書は常に私たちの思考の変換を求めている。主イエス・キリストが十字架にかけられ、埋葬される。日曜日の朝早く婦人たちはお墓参りに行く。ここにはイエス様が埋葬されているのである。ところが行ってみると、墓の前に大きな石が置かれているのであるが、それが脇に転がしてある。そこで天使が現れて、イエス様が復活したことを伝える。しかし、婦人たちは信じられなかった。弟子たちにも知らせたが、彼らも信じられなかったのである。死んだイエス様は、確かにここに埋葬したはずである。その事実は厳然と思いの中にあるのである。空虚な墓の意味を知るようになるのは、復活のイエス様が弟子たちに現れることによって、空虚な墓の意味を知ることになる。復活なんて考えられない事実であるが、思考の変換、すなわち信仰によって空虚な墓を信じるようになるのである。聖書に向かうとき、自分を無にしない限り御心が示されないということである。
 パズルから信仰論に展開したが、今日は夕刻に散歩に出る。いつもは教会の周辺程度であるが、スミさんも3000歩も歩くことになる。腰の調子がよくなっている。



サグラダ・ファミリアを背景に記念写真。



3000歩も歩いて一休み。