鈴木伸治の徒然記

永年の牧師、園長を隠退し、思い出と共に現況を綴ります

「受難の門を見つめつつ」・バルセロナ滞在記<8>

「受難の門を見つめつつ」・バルセロナ滞在記(2012年9月10日〜11月6日) <8>
2012年9月17日「教会の鐘の音を聞きつつ過ごす一日」



 今日は月曜日、日本を発ってから一週間になる。いろいろな体験に追われながら、あっという間に過ぎたようだ。今日は洗濯物を干したり、読書、パソコンの仕事をする他は特に記すべきことがない。一日中、部屋で過ごしていると、教会の鐘の音が体にしみこんでくる。教会の鐘はいろいろな教会から聞こえてくるが、中でもサグラダ・ファミリアの鐘の音は、メロディーとなっているので、癒しの鐘ともなっている。時刻の数だけ鳴らす鐘の音も聞こえてくる。昨年、山田修平さんからお借りした本によると、サグラダ・ファミリアは一つの大きな楽器であると記されていた。街中に教会のメッセージをつたえるかのように鐘の音が行き渡っていく。



バルセロナの中心になっているサグラダ・ファミリア
サグラダ・ファミリアは大きな楽器であるとも言われている。



「聖誕の門」側にある天使の彫像
キリストの聖誕を人々に美しい音で知らせている。


 羊子が住むマンションは7階建てであり、1フロアーに4軒の家がある。従って、28軒の家があるのだと思う。なにしろ約100年前に造られているので、いろいろな面で古さがあり、不便に感じることもある。7階建てなので当然エレベーターはあるが、これが古くて、怖い思いをするときがある。4人が定員であり、狭いという印象である。これで急病人が出た場合、どのようにして運び出すのかと思う。時々エレベーターが動かなくなるときがある。エレベーターのドアーを確実に閉めないと動かない。降りた人がいい加減に閉めておくと動かないのである。そういう場合、階段を上り下りするのであるが、これがかなりきつい階段なのである。浴室、洗面所、トイレが一緒であるので、誰かがシャワーを浴びていれば使えない。浴室も狭いので、お風呂にすることもできるが、多くの場合、シャワーで済ませる。このような造りはどこの家も同じようである。日本の住宅のように浴室、トイレ、洗面所が別々になっていないのである。日本の生活がいかに楽であるか、しみじみ思うのである。
 しかし、間取りのとり方は良くできていると思う。キッチンの隣にリビング、食事の間があり、比較的便利に使える。なんと言っても、外に目を移せば大きなグラダ・ファミリア教会が目に入ってくる。羊子の家を訪問する人は、一様に感嘆の声を上げるのである。石造りなので、ちょっとしたものづくりが出来ない。木造であれば、棚を作ったり、額をかける釘を打ち込むことができるのだが、ちょっと難しい。日本にいるときから、バルセロナに来たら棚を作ってほしいと言われていたが、石造りなので残念ながら出来ない。工具があれば何とかできると思うのだが。
 1フロアーには4軒の家があると記したが、お隣さんとはほとんど会ったことがない。同じフロアーにはロリーさんの家があり、この方とは羊子は親しくしている。昨年、我々が過ごしたときにも、帰国が間近になったとき、お招きを受けお茶をいただいたのであった。日本でも同じようであるが、同じマンションに住んでいながら、隣近所の付き合いと言うものがないのである。一戸建ての家が並んでいる場合でも、付き合いがないかも知れないが、日本の場合、隣組組織が決められており、回覧板がまわってきたり、隣組の会費を払ったりして、何とか周辺の皆さんとの交わりがある。日本における私の家も、約70年も住んでおり、世代が少しずつ変わっているが、昔ながらのお付き合いをしているのである。だから、昨年もしたように、今回二ヶ月も留守にするので、周辺の家々には挨拶をして回ったのであった。
 サグラダ・ファミリア教会の目の前であり、やはり賑やかな街の中にいる。窓を開けておくことが多いので、いつもいろいろな音を耳にしながら過ごしている。教会の前は公園にもなっているので、そこで楽器を使ってお金を求めている人がいる。一日中フルートの音程の外れた音色を聞くことになる。ドックランでは犬たちがほえている。車の騒音もある。救急車の音も結構うるさい。そういう中で、時を知らせる諸教会の鐘の音が聞こえる。街の営みの中に教会が絶えずメッセージを送っているような思いで聞いているのである。教会の鐘は、いろいろな状況を過ごしている人々に、ふと我に帰えさせるひとときになっているのではないだろうか。教会の鐘の音を聞いては、新たなる思いで取り組んでいる人もいることであろう。