鈴木伸治の徒然記

永年の牧師、園長を隠退し、思い出と共に現況を綴ります

隠退牧師の徒然記 <140>

隠退牧師の徒然記(2011年6月1日〜)<140>
2012年9月1日 「導きの源流を探りつつ⑩」 


聖書の言葉
これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これが私の掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。わたしの命じること行うならば、あなたがたはわたしの友である。もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。
ヨハネによる福音書15章11-15節)



 9月2日の主日礼拝において清水ヶ丘教会の講壇に立たせていただくことで、私と清水ヶ丘教会との関わりを「導きの源流を探りつつ」として書き残してきた。細かいことまでは記さなかったたが、大筋は記したと思う。従って、もはや終わりとするのであるが、付け加えておきたいことがある。
 それは私と友人である岩粼隆牧師とのことである。共に清水ヶ丘教会出身であり、今日まで共に歩んできたと思っている。中学生になってから清水ヶ丘教会に出席するようになり、しかし日曜学校中学科に通わなかった。一度は出席したのであるが、中学科の生徒に圧倒されたことにもよる。そこにいたのが岩粼隆、内藤雅俊、佐藤壮介と言った面々であることは後で知ることになる。中学科に出席しない私を高校生グループの「ぶどうの会」が拾ってくれる。中学生でありながら、高校生グループで教会生活が導かれるのである。高校生になったとき、中学科から進んできた皆さんを歓迎する集いの中に、私は同じ年代でありながら迎える立場になったのである。中学生時代から高校生グループにいるのだから、絶えず先輩のようなふるまいをしていたのではないか。中学科から進んできた連中にとっては面白くないことは確かである。その頃、「ぶどうの会」の会長は前期と後期、半年ずつ担うのであるが、私は前期と後期の一年間、会長として活動するのである。私が与党であれば岩粼を始め中学科から来た連中は野党であった。しかし、当初はそんな関係であったが、次第に交わりが深められていく。
 神学校日・伝道献身者奨励日に、倉持芳雄先生の奨励で、献身者は起立するよう求められ、思わず立ってしまったことについては既に記した。献身を決心したものの5年間は待たなければならなかった。ところが岩粼隆が日本聖書神学校に早々と入ってしまうのである。先を越されたとの思いが募る。結局、私が神学校に入るのは、彼に遅れること3年後であったのである。従って、私は3年後輩になるのである。彼は卒業すると東京の高輪教会の伝道師に就任する。そして、私が卒業を迎える頃、清水ヶ丘教会の婦人会の谷本あいさんと娘さんの宮負俊子さんの声かけが、岩粼隆にも及ぶのである。紹介してくれたのが高輪教会員であったからである。こうして彼は私達夫婦を出会わせる一人になったのであるが、彼との関係は、更に色々と深まっていくのである。
 神学校を卒業して最初の任地は東京の青山教会であった。その4年後に宮城県の陸前古川教会に赴任する。6年半の牧会をしているとき、彼から連絡があり、大塚平安教会への就任を勧めてくれたのである。大塚平安教会の乙幡和雄牧師と岩粼隆牧師は神奈川教区で親しくしていたようで、乙幡和雄牧師が退任にあたり、後任を岩粼に依頼したのであった。
 神奈川教区に来てから翌年には教区書記を要請されたのであるが、就任したばかりであり辞退する。その代わりに岩粼隆が書記を受託する。そして、数年後に再び書記就任の要請があり、受託することになる。岩粼は教区主事になり、私は書記として共に教区を担うようになるのである。そして、その後は私が教区議長になり、彼は主事を続けたり、副議長になったりした。その後、私が教団教師委員会の委員になり、更に教団書記を担うようになると、彼が教区議長として担うようになるのである。教団書記になるにあたっても、推薦したのは岩粼隆であったのである。彼は今でも神奈川教区議長を担っている。私は、もはや隠退しているのに、彼はまだ現役として教会を担い、教区を担っていること、尊敬はしているが、もう辞めなさいと言っているのである。しかし、開拓伝道で教会を造り上げたので、倉持芳雄先生と同じように、生涯にわたって教会を担い続けるであろう。
 このような出会いが清水ヶ丘教会で与えられたことは、「導きの源流を探りつつ」記すならば、トップに記さなければならないが、終わりのまとめとして記しておく。清水ヶ丘教会が生涯の友に出会わせてくれたことを、心から感謝している。
 


<ブログのお休みについて>
 「隠退牧師の徒然記」として、心に示されることを2011年6月から記してきました。現役時代、牧会に、職務に明け暮れていましたが、隠退してからは見えなかったことが見えるようになり、それは書き留めておく必要を覚えたからです。もはや、書くことがなくなったからブログをお休みするのではなく、書けない状況になるからです。9月10日から11月6日までの約二ヶ月間、娘の羊子がスペイン・バルセロナでピアニストとして活躍していることは皆様もご存じですが、再び連れ合いのスミさんと行ってくることにしました。昨年、2011年4月と5月にも行って来たのですが、今後、年を重ねて行くわけで、行けるうちに行っておこうと言うことが素朴な理由です。昨年は、羊子がパリの三大美術館に連れて行ってくれましたが、今回はローマ見学に連れて行ってくれることになっています。ローマは、ぜひ行ってみたいと思っていました。塩野七生さんの「ローマ人の物語」、文庫本で34巻を読んだり、地中海世界の歴史物語を読んでいますので、いっそう興味を持っています。キリスト教発展の都でもあり、予定の三泊四日でも見学しきれないでしょう。
 ブログを再開するのは12月1日からと考えています。再び現地の滞在記を記すことになるでしょう。また、「隠退牧師の徒然記」の続編も記すことになるでしょう。今までお読みくださいましてありがとうございました。



2011年4月5月にバルセロナに赴く。
羊子の家はサグラダ・ファミリアの目の前にあり、
毎日のように教会の周囲を散歩していた。