鈴木伸治の徒然記

永年の牧師、園長を隠退し、思い出と共に現況を綴ります

隠退牧師の徒然記 <139>

隠退牧師の徒然記(2011年6月1日〜)<139>
2012年8月31日 「導きの源流を探りつつ⑨」
 

聖書の言葉
こういうわけで、わたしも、あなたがたが主イエスを信じ、すべての聖なる者たちを愛していることを聞き、祈りの度に、あなたがたのことを思い起こし、絶えず感謝しています。どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるようにし、心の目を開いてくださるように。
(エフェソの信徒への手紙1章15-18節)



 「清水ヶ丘教会源流を知る」プロジェクトを示され、私自身の「導きの源流を探りつつ」、いくつかのことを思い起こしつつ記してきた。もっと早く紐解けばよかったのであるが、今ここに1991年7月に発行された「種をたずさえ」(倉持芳雄牧師伝道50年記念誌)と1998年5月に発行された「清水ヶ丘教会50年史」がある。これらの歴史を証しする書物を読むとき、私の源流も残されているのである。今までおぼろげながら捕らえていた源流をはっきりと示されるのである。
 1947年9月28日が横浜ミッション教会の創立礼拝とされている。実にこの礼拝において14名の兄弟姉妹が洗礼を受けている。倉持芳雄牧師は1946年に蒲田新生教会を設立し、同時にエルンスト・ラング宣教師の要請があり横浜福音医療宣教団ミッション診療所で医療伝道を開始している。そして、「ユース・フォ・クライスト」青年伝道に従事されるのである。これらの開拓伝道が導かれて横浜ミッション教会の創立礼拝で洗礼者が与えられるのである。この最初の礼拝で洗礼を受けた一人が、私たち姉弟の従妹・石渡モト子である。後に結婚してケナップ・モト子になり、アメリカに住むことになる。このモト子の導きで私の姉の美喜子が教会に出席するようになり、1949年6月5日のペンテコステ礼拝で洗礼を受ける。そして、美喜子の導きで次姉・清子が同じ1949年12月25日のクリスマス礼拝で洗礼を受けている。
 このような姉たちに導きが与えられている頃、1948年のおそらく秋頃、小学校3年生であった私は、母に連れられて関東学院教会日曜学校に出席するのである。このあたりは既に記しているので割愛するが、私を日曜学校に通わせることになるのは、姉たちが教会に出席していたことにもよると思っている。1950年に南太田の丘に清水ヶ丘教会が設立され、1952年4月20日には新会堂が建設されている。その年は私が中学1年生になったときであり、その献堂式には出席したのではないかと思っている。写真が残されていないので確認ができない。中学生になってから清水ヶ丘教会に出席するようになるが、まさに新しい教会と共に私の新しい歩みが始まって行ったのである。その後、23歳で神学校に入るまでのことについては既に記しているが、私が清水ヶ丘教会から転出するのは1969年3月31日と記録されている。つまり、その時点で日本基督教団の補教師試験に合格し、4月1日からは東京の青山教会伝道師に就任するからである。神学生の時代は清水ヶ丘教会、川崎教会、曙教会を奉仕教会としていたが信徒籍は清水ヶ丘教会においていたのである。
 以後、清水ヶ丘教会出身を基としながら歩むのであるが、その後、二度ほど講壇に招かれている。1972年10月15日、創立25周年記念夕礼拝であり、この頃は青山教会副牧師の時代である。その後は1997年5月25日の礼拝の講壇であるが、その礼拝はおそらく教育館でささげられたと思われる。現在の会堂建築が1997年1月に着工されているので、完成までは教育館で礼拝がささげられたのである。記憶をたどっているが、その後お招きを受け、現在の新会堂で説教をしたのかどうか、思い出せない。神奈川教区の総会が清水ヶ丘教会を会場にして開催されるようになり、教区議長時代に開会礼拝を担当したことは覚えているのだが。
 清水ヶ丘教会の草創期時代に、私も導かれており、皆さんのお祈りとお支えにより今日まで歩んできたのである。隠退して、改めて「導きの源流を探りつつ」私自身の原点を示されたことを感謝したい。



私が育てられた最初の清水ヶ丘教会のたたずまい。