鈴木伸治の徒然記

永年の牧師、園長を隠退し、思い出と共に現況を綴ります

隠退牧師の徒然記 <138>

隠退牧師の徒然記(2011年6月1日〜)<138>
2012年8月29日 「導きの源流を探りつつ⑧」 


聖書の言葉
わたしはまた、大群衆の声のようなもの、多くの水のとどろきや、激しい雷のようなものが、こういうのを聞いた。「ハレルヤ、全能者であり、わたしたちの神である主が王となられた。わたしたちは喜び、大いに喜び、神の栄光をたたえよう。小羊の婚礼の日が来て、花嫁は用意を整えた。花嫁は、輝く清い麻の衣を着せられた。この麻の衣とは、聖なる者たちの正しい行いである」。
ヨハネの黙示録19章6-8節)



 清水ヶ丘教会は今年で65周年を歩んでおり、新たなる宣教を導かれるためにも、「清水ヶ丘教会源流を知る」プロジェクトを発足させている。これからの教会のあり方を教会全体で考えておられるのである。そのため、出身教職を招き、御言葉の取り次ぎを要請するのであるが、何故か私がその務めを果たすことになった。9月28日が創立記念日であり、今年は30日に65周年記念日礼拝をささげるので、その日の講壇を要請されたのである。しかし、9月10日からは約二ヶ月間、娘の羊子がピアニストとしてスペイン・バルセロナで演奏活動をしているので赴くことになっており、辞退させていただいたのである。ところが、それならそれで9月2日でも良いと言われ、辞退する理由がないので承諾してしまったのである。いよいよ次週がその日に迫っている。それで、私自身の清水ヶ丘教会における「導きの源流を探りつつ」歴史を振り返る事にして、今回で八回目になる。もうそろそろ源流を探りつくしたと思っているが、やはりまだいくつかのことに思いを馳せたい。
 清水ヶ丘教会が日本の敗戦後、瞬く間に現れ、設立されて10年もしないうちに大教会になってしまった。ラング宣教師、倉持芳雄牧師のお働きが祝福されていくのである。多くの青年達が導かれていくのである。そして、南太田の丘に教会が建てられたことも宣教の基である。京浜急行線の電車に乗っていると目線の位置で教会のたたずまいが示されて来るので、それだけでも伝道になっている。何と言っても青年伝道に力を注いだことが祝福となっているのである。その青年達の出会いが与えられ、結婚へと導かれること、これほど教会の力となることはない。今はお子さん達が教会を担うようになっているからである。教会員が多ければそのような出会いが導かれるものである。30年間牧会した大塚平安教会において、教会員の青年どうしが出会って結婚へと導かれたケースは、一生懸命思い出しているのであるが、なさそうである。他の教会員と結ばれた人はいる。あるいは教会員の青年が交際していた相手を教会に導き、結婚した場合もある。現住陪餐会員100名、礼拝出席数50名の教会は、それほど青年がいないということである。ところが1947年に設立された清水ヶ丘教会は、10年もしないうちに礼拝出席数が200名を超えているのだから、導かれている青年も多いのである。教会の信仰の交わりは出会いが与えられていくのである。
 ところが、青年達が自然に出会いを与えられていったということでもない。倉持芳雄牧師は、その点、出会いを与える名人ではなかったかと思う。私自身の経験はないが、倉持牧師から○○さんを紹介されたという友人のお話を聞いたものである。私の長姉・美喜子もその一人で、何回か紹介されたようであるが、姉の場合はその出会いがなかったようである。最後まで独身で、私の牧者としての歩みを祈ってくれたのである。その倉持牧師の姿勢は、婦人会の皆さんも受け継ぎ、何かとお世話をしていたようである。色々と網を張る中で、私もその網の中に入れられたということである。婦人会に谷本あいさんがおられ、その娘さんが宮負俊子さんであり、彼女は明治学院に勤めていた。共に勤務していた高輪教会員の渡辺スミさんに網がかけられるのである。そして、高輪教会で伝道師をしていた岩粼隆牧師にも話しがおよび、網が手繰り寄せられてしまったのである。
 清水ヶ丘教会の源流は何よりも多くのクリスチャンホームができあがったということである。そして、クリスチャンホームの子供達が、今は教会を担いつつ歩んでいるのである。祝福の清水ヶ丘教会の歩みなのである。



1959年3月に開催された教会総会。
前でかがんでいる倉持芳雄牧師、右端がラング宣教師、
その左の二番目の白っぽいジャンパーを着ている青年が私。
これらの皆さんの交わりと出会いが与えられていた。