鈴木伸治の徒然記

永年の牧師、園長を隠退し、思い出と共に現況を綴ります

隠退牧師の徒然記 <137>

隠退牧師の徒然記(2011年6月1日〜)<137>
2012年8月27日 「導きの源流を探りつつ⑦」 


聖書の言葉
あなたがたは、真理を受け入れて、魂を清め、偽りのない兄弟愛をいだくようになったのですから、清い心で深く愛し合いなさい。あなたがたは、朽ちる種から、すなわち、神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれたのです。「人は皆、草のようで、その華やかさはすべて、草のようだ。草は枯れ、花は散る。しかし、主の言葉は永遠に変わることがない」。これこそ、あなたがたに福音として告げ知らされた言葉なのです。
(ペトロの手紙<一>1章22-25節)



 大塚平安教会在任中、高齢になりつつもお元気に教会生活をされていた皆さんのお証を力強く示されていた。そうした皆さんから伺っている信仰の歩みは、かつては日曜学校の教師をしていたということである。このことは高齢者ばかりではなく、教会員は洗礼を受けてから間もなく、日曜学校、教会学校の教師の務めを担うものである。教師不足もあるが、信仰の告白をされたばかりの皆さんは主の僕の使命を深めているからである。従って、大塚平安教会時代には多くの皆さんに教会学校の教師になっていただいたのである。
 私自身、洗礼を受けてから間もなく教会学校の教師になっている。清水ヶ丘教会で中学・高校生時代を過ごし、高校3年生の時に洗礼を受ける。それについては前回も触れている。そして、牧師になる道を示されながら社会で働く者になった。そういう私を拾ってくれたのが教会学校であった。小学科1・2年生の担当であった。当初は見習いであったが、お話をさせられるようになり、苦労しながらも、未熟でありながらも担当したのであった。この経験は、その後の歩みにおいて随分と基礎になっていたと思う。23歳で神学校に入り、それぞれの教会を実習教会とするので、その後は清水ヶ丘教会を離れることになる。最初は川崎教会を奉仕教会とする。迎える教会は神学生であると言うことで、結構重い役目を与えるものである。教会学校の教師はもちろんであるが、礼拝の司会も担当させられるのである。人前でお話することが増えて行くことになる。川崎教会の次は西荻窪にある曙教会に出席するようになる。小さい教会であるが、それだけに色々な役目を担うことになるのである。




教会学校小学科1・2年のハイキング。
神武寺から鷹取山へ。



 教会学校の教師の役目をいただくが、その後は高校生グループ「ぶどうの会」の顧問にさせられる。この時、一緒に顧問を担ったのが島田勝彦牧師である。高校生の信仰の指導と相談役が職務であるが、メンバーの家を訪問したり、指導者としての訓練を与えられたことは確かである。私の原点である清水ヶ丘教会において、人前に立つ訓練が与えられていたのである。
 本来、私は人前でお話をすることは苦手としていたと思う。高校生時代に高校生グループ「ぶどうの会」の会長などを担ったが、それとこれとは異なる。人前で改まってお話することの困難は、私にはその技量がないと思っていた。皆さんと色々と雑談しながら過ごしているうちにも、私も思い当たることがあるので、そのことを話そうとすると、話題はもう移っており、別のことが話し合われているのである。頭の回転が遅く、皆さんの話題にはついていけないこと、それは今でも同じである。しかし、教会学校で子供たちと接し、またお話を重ねるうちにも、次第に訓練が積み上がって行ったようである。そして、牧師になれば、毎週のように説教として御言葉を語るようになるのである。教会学校時代の教師の経験、高校生グループの顧問の経験が基礎となっていると、今でも思っているのである。
 とにかく私の信仰の原点は清水ヶ丘教会であるが、牧師の原点もここにあると言うことである。原点であるが、私が清水ヶ丘教会に所属するのは12、3年間である。清水ヶ丘教会の源流を探るには、その役には立たないのであるが、私が「導きの源流を探りつつ」をここに記す時、何よりも清水ヶ丘教会によって育てられたということぐらいであろう。ラング先生、メーヤ先生にもお会いしているが、出会いとして記すほどのことはない。生糸検査場におけるミッション教会に行ったことがあるが、かすかな思い出が残っている程度である。私にとって、源流は中学・高校生時代の歩みこそ源流になって行ったということである。