鈴木伸治の徒然記

永年の牧師、園長を隠退し、思い出と共に現況を綴ります

隠退牧師の徒然記 <136>

隠退牧師の徒然記(2011年6月1日〜)<136>
2012年8月25日 「導きの源流を探りつつ⑥」 



聖書の言葉
わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。
(フィリピの信徒への手紙3章12-14節)



 自分の将来については、どのようになるかは分からない。しかし、目標を持って示された道を歩むであろう。いわゆる進路と言うものである。進路を定めて歩むことは、その道のために勉強をするであろうし、思いも進路にあてはめながら将来へとむかうのである。その点、清水ヶ丘教会の倉持芳雄牧師の牧会は見事であったと思っている。この進路に導かれたからである。
一つは「準教会員」制度であった。高校3年生の時に洗礼を受けたが、その前に「準教会員」となり、教会員でないにしても、教会員と同じような気持ちで教会生活をしていたと思う。教会がそのような姿勢へと導いているからである。将来あるいは近日、洗礼を受ける希望を持っている人は届け出をする。「準教会員」となるのである。準教会員は洗礼を受けていないので聖餐式には与れないが、他は教会の皆さんと同じような立場になる。高校生になって、間もなく準教会員の届けを出したと思うが、早速、奉仕の役割を与えられる。礼拝出席人数をカウントすることである。それは献金がささげられるときに行われる。当時の会堂の小二階席から計数器で数え、玄関付近は見えないので、降りて来て確認すると言う奉仕であった。ときどきまわって来るこの奉仕に、緊張して臨んだものである。計数器でカウントするほど当時の礼拝出席者が多くおられたのである。整地奉仕については既に記しているが、他には会堂清掃等も喜びつつ奉仕していた。高校生グループの「ぶどうの会」としての会堂清掃は、交わりが深められるひとときであったが、準教会員としての責任であったような気がする。「準教会員」であると言うこと、いずれは洗礼を受けて教会員となる、信仰の進路と言うことになるだろう。
 もう一つは「伝道献身者」である。洗礼を受ける一年前、高校2年生の秋のことである。日本基督教団は第二主日を「神学校日・伝道献身者奨励日」としている。倉持芳雄牧師は礼拝説教の中で、伝道者の大切な働きを述べ、人々の救いのために若い皆さんは伝道者として献身されたいとお話される。そして、将来伝道者になることを決心されている方はお立ちいただきたい、と促すのであった。そのとき私は、将来は牧師になると言う、はっきりした思いはなかったが、倉持牧師の促しに、すっと立ってしまったのである。そのとき伝道者になる決心をして起立したのは、私を含めて4、5名おられたと思う。倉持牧師は役員の数名を指名し、これらの伝道献身者のためにお祈りをささげたのであった。物事が逆ではないかと思う。本来は洗礼を受けており、その上で伝道献身者への道を決心するのであるが、まだ洗礼を受けてもいないのに、伝道者になることを決心してしまったのである。伝道者になることについては、全く考えていなかったのではない。高校生であったが「福音と世界」と言う雑誌を時々読んでいた。その中に菊池吉弥牧師が青森県五所川原伝道についての手記があり、感銘深く読んだのであった。伝道者の困難な取組み、しかし、そこに喜びがあることを記されていたと思う。伝道献身者への思いは、その辺りから芽生えていたのである。それにしても、倉持牧師の進路設定に、見事に導かれてしまったと思っている。もちろん、伝道者になることは神様の召命をいただくことである。この私に召命が与えられたと言うことは、倉持牧師の伝道献身者の奨励で、なんとなく応えるために立ったのではなく、神様の召命に応えたと思っている。
 私は5人姉弟の末っ子である。兄は敗戦後、病気で亡くなっている。二番目と三番目の姉は結婚している。私が高校を卒業するころは、父は間もなく定年となる。息子として親を安心させるために、社会に出て働くことを考えていた。そういう意味もあり県立商工高校に進んだことも確かである。それが将来伝道者になる方向を持ってしまった。伝道者になるのか、ならないのか、悩みつつ社会に出て行くのである。親としても、特に母は、あれほど私を日曜学校に通わせたのであるが、伝道者になることに対して、「何も牧師さんにならなくても」と反対するのであった。5年間、社会で働くなかで、長姉の美喜子が両親を説得してくれる。そして私には、「お父さんとお母さんは、私が一緒に生活するから、あなたは牧師になりなさい」と勧めてくれたのである。両親も私の歩むべき道だと理解を示してくれたので、23歳になって日本聖書神学校に入学したのであった。将来、伝道献身者になることを礼拝において公にしたのであるが、だからと言って、倉持芳雄牧師は何も言われなかった。しかし、示されていたことは、献身の決意をした人たちのために、常にお祈りしていたのであろう。そのことは準教会員になったときも、あれこれ指導するのではなく、常に背後でお祈りしてくださっていたと示されるのである。進路が定められ、そのために篤い祈りがささげられていたことを示されている。



高校を卒業した頃、背景は昔の清水ヶ丘教会。
進路について祈りつつ過ごしていた。