鈴木伸治の徒然記

永年の牧師、園長を隠退し、思い出と共に現況を綴ります

隠退牧師の徒然記 <135>

隠退牧師の徒然記(2011年6月1日〜)<135>
2012年8月23日 「導きの源流を探りつつ⑤」 


聖書の言葉
従って、あなたがたはもはや、外国人でもなく寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり、使徒預言者という土台の上に建てられています。そのかなめ石はキリスト・イエス御自身であり、キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです。
(エフェソの信徒への手紙2章19-22節)



 やはり大事なことを記しておかなければならないだろう。高校3年生の時、1957年10月6日、世界聖餐日礼拝にて倉持芳雄牧師より洗礼を授けていただく。今まで神奈川分区内や全国KKSキャンプで出会った友達は、この時になって洗礼を受けると聞いて、一様に驚いていた。もうとっくに洗礼を受けていると思ったと言うのである。それほど賑やかに活動していたのであろう。洗礼については、中学生になってから清水ヶ丘教会に出席しており、高校生になって真剣に考えるようになっていた。それは「ぶどうの会」のメンバーとも信仰について話し合い、勧められてもいたのである。「ぶどうの会」は自主的な活動であるので、日曜学校の教師という立場ではなく、顧問という形で参与している人たちがおられた。顧問の皆さんの助言も導きになっていたと思う。高校3年生の時、青年会の修養会が逗子で開催され、例によって参加する。確か森戸海岸であったと思うが、海水浴のプログラムもあった。一同楽しく泳いでいたのであるが、ふと気がつくと、泳いでいるのは倉持牧師と私だけであり、他の皆さんは浜に上がって過ごしているのである。横に並んで倉持牧師と泳いでいるうちに、洗礼志願の言葉を考えもせずに述べているのである。「洗礼を受けさせてください」と泳ぎながら言う私に対して、「それは良かった。よく決心されました」と泳ぎながら祝福してくださる。
 倉持芳雄牧師にしては泳ぎながらの洗礼志願は、よほど印象深かったのであろう。洗礼式当日の礼拝説教の中で、かなり長くお話されていた。その後、この泳ぎながらの洗礼志願は何回も聞くことになるのである。神学生の時、清水ヶ丘教会の講壇に立たせていただいたが、その時も倉持牧師は私の紹介として水泳洗礼志願をお話されたし、連れ合いとの婚約式の時、結婚式の時、常に私の紹介物語となっていくのである。私のことばかりではなく、倉持牧師は総じて人を立てることに長けておられると思っている。極端に言えば、教会員は必ず一度は倉持牧師によって立てられ、証しが導かれているのである。これを牧会と言うのであるが、私も含めて牧師はなかなかできないことなのである。一人の人をことさらに立てるというのは、むしろ控えるのである。しかし、清水ヶ丘教会の皆さんは、一度は立てられているので、立てられている人と共に喜ぶのである。皆さんが一人の存在を見つめ、常に示されながらお祈りしていることを示されるのである。
 神学生になって講壇に招かれる。倉持牧師により水泳洗礼志願がお話され、その後に御言葉を取り次いだのであるが、会衆席では、特に婦人会の皆さんの中には涙を拭きながら、頷きつつ聞いてくださっていた。そんなに心に響くメッセージなのか、なんて思わないが、頷いて聞いてくださることは、語る者の励ましにもなる。礼拝が終わり、倉持牧師と共に玄関に立つ私に対して、婦人会の皆さんは、「あの伸ちゃんがねえ」と一様に口にされるのであった。小さい頃からの私を知っている皆さんなのである。中学・高校生時代、その成長を見ている皆さんが、今は講壇に立つ者になっていることに喜んでくださっているわけである。頷き、涙を流しつつ聞いてくださっていたのは、「あの伸ちゃんがねえ」なのであった。それでも皆さんの励ましと受け止めている。本当に清水ヶ丘教会は家族であると示されている。小規模の教会であると、神様の家族としての思いが深まる。しかし、その頃も礼拝出席は200名はいたであろう清水ヶ丘教会は大きな教会であった。ともすると大教会は全体的な交わりが弱くなるのであるが、清水ヶ丘教会は神様の家族として導かれていたのである。



1957年の世界聖餐日のお知らせ。
この日、洗礼式が執行されることも。
残念ながら写真はない。