鈴木伸治の徒然記

永年の牧師、園長を隠退し、思い出と共に現況を綴ります

隠退牧師の徒然記 <134>

隠退牧師の徒然記(2011年6月1日〜)<134>
2012年8月21日 「導きの源流を探りつつ④」 


聖書の言葉
聖なる者たちのための募金については、わたしがガラテヤの諸教会に指示したように、あなたがたも実行しなさい。わたしがそちらに着いてから初めて募金を行われることのないように、週の初めの日にはいつも、各自収入に応じて、幾らかずつでも手もとに取って置きなさい。そちらに着いたら、あなたがたから承認された人たちに手紙を持たせて、その贈り物を届けにエルサレム教会に行かせましょう。わたしも行く方がよければ、その人たちはわたしと一緒に行くことになるでしょう。
(コリントの信徒への手紙<一>16章1-4節)




 前回、高校生時代を振り返ったのであるが、今回も振り返っておく。高校生のグループ「ぶどうの会」は、横浜にはキリスト教主義の学校が多く、それらの生徒がメンバーに加わり、活動が盛んであったことは前回も記した。その活動の中には他教会との交流も結構行われていたのである。近くにある霞ヶ丘教会の高校生会との交流会が良く行われており、三浦半島の大楠山へハイキングをして交わったりしている。霞ヶ丘教会は日本基督教団ではなくバプテスト系の教会であるが、教派を超えて交わりをしていたのである。また、その頃はKKS活動が盛んであった。KKSとは教会高校青年の略である。教会の高校生活動を別名KKSと称していたのである。神奈川県下にある日本基督教団のKKSの集会が年に一、二度開かれており、それらの集いによって視野が広げられていくのである。その頃、high school YMCA略称HIGH・Yの活動も盛んに行われていた。しかし、こちらは教会が土台ではないので、その後は停滞しいて行ったようである。
 日本基督教団神奈川教区が発足するのは1965年4月1日からである。それまでは東京教区神奈川分区であった。その神奈川分区から代表として全国KKSキャンプに参加する。もう一人、指路教会の女子高校生が共に参加する。1956年7月27日から30日、山中湖YMCAキャンプ場であった。私が高校2年生の時である。この時の主題講演が岡田五作先生であり、その後、神学校に入って再び出会うことになるのである。その時、お話されたエピソードが今でも忘れられない。「御殿場の駅を降りたら、女の子達が大きな声を出したり、迷惑な振る舞いをしていました。ふと駅の看板を見ると御殿場(おてんば)と書いてあったので、なるほどと思いました」とお話されて、一同大笑いになり、講演を深くお聞きすることになるのである。その全国大会に出席し、全国の友人を得たことになる。東北教区、大阪教区、京都教区等の友達とはしばらく文通で交わりが続く。高校3年生になり、修学旅行は関西であった。大阪駅ではしばらくの自由時間があり、KKS全国大会で知り合った友人たちが出迎えてくれた。喫茶店で積もる話をしているうちに集合時間となり、急いで集合場所に行ったのであるが時間が過ぎていた。担任の先生は一人私が帰らないので心配していたのである。私の顔を見るなり、きつく叱られ、始末書まで書かされることになる。この大会で牧師になったのは二人であった。その一人が私である。牧師夫人になった人は、知る限りでは二人いる。1957年には東京教区のKKS修養会が啓明学園で開催された。神奈川分区からは10名の高校生が参加しているが、その時も私は参加している。



1956年に開催された第7回全国KKSキャンプに
神奈川を代表して参加する。


1957年に開催された東京教区KKS修養会に参加する。




 以上を振り返ると、高校生時代にて他教派、他教会の皆さんと交わっていたことは、大きく視野が広げられていったのである。この姿勢は清水ヶ丘教会における倉持芳雄牧師の取り組みである。倉持牧師は韓国・朝鮮人の皆さんとの交わりを深め、伝道を進めておられた。今でも続けられている横浜菊名教会、横浜岡村教会との三教会合同修養会は倉持牧師の牧会姿勢であることを示される。他教会を覚えては献金をささげ、協力する姿勢は、私にとっての導きになるのである。その頃、礼拝が終わると、報告の中で「大塚平安教会」の名を聞くようになる。同教会のために献金をささげることが奨励されていたようである。中学・高校生時代で、ほとんど関心がなかった。それが後に、大塚平安教会の牧師へと導かれていくのだから、神様の大きなご計画を示されるのである。