鈴木伸治の徒然記

永年の牧師、園長を隠退し、思い出と共に現況を綴ります

隠退牧師の徒然記 <132>

隠退牧師の徒然記(2011年6月1日〜)<132>
2012年8月15日 「導きの源流を探りつつ②」
 

聖書の言葉
主の言葉がわたしに臨んだ。「わたしはあなたを母の胎内に造る前から、あなたを知っていた。母の胎から生まれる前に、わたしはあなたを聖別し、諸国民の預言者として立てた」。わたしは言った。「ああ、わが主なる神よ、わたしは語るべき言葉を知りません。わたしは若者にすぎませんから」。しかし、主は言われた。「若者にすぎないと言ってはならない。わたしがあなたを、だれのところへ遣わそうとも、行って、わたしが命じることをすべて語れ。彼らを恐れるな。わたしがあなたと共にいて、必ず救い出す」と主は言われる。
エレミヤ書1章4-8節)



 キリスト教に出会い、信ずる者へと導かれ、教える者になって65年を経ていると思う。この際、「導きの源流を探りつつ」歩んだ足跡を顧みることにした。動機となったのは、9月2日に出身の清水ヶ丘教会で御言葉を取り次ぐからである。それも、「清水ヶ丘教会源流を知る」プロジェクトの一環として要請されたので、お応えするほどの源流を知る者ではないが、育てられたこと自体が源流になると思ったからである。
 前回は私が小学校3年生から関東学院教会日曜学校時代に通い始めたことを記した。4年生、5年生、6年生時代は母の励ましもあり、毎年のように精勤賞をいただく。そのあたりのことしか覚えていなかったのであるが、アルバムを紐解くと、日曜学校の修養会、野外散策に参加している写真が残っている。結構、日曜学校で養われていたことを知るのである。その後、中学生になってからは姉たちが所属する清水ヶ丘教会に出席することになる。その経緯は前回記している。清水ヶ丘教会は我が家から駅まで歩いたり、京浜急行の電車に乗って50分くらいかかる。しかし、中学校は私立横浜高校附属横浜中学に進んだので、昔は京浜急行谷津坂駅(今は能見台駅)であり、清水ヶ丘教会の南太田駅の中間であったので、礼拝出席は苦にならなかった。当初は毎週の出席ではなかったと思う。まだ中学生であり、教会の何人かの人たちが日曜学校中学科に出席するよう勧めてくださる。その頃はまだ「日曜学校」と称していたと思う。「教会学校」と称するようになるのは、1954年にJ.D.スマートが「教会の教育的使命」を現し、大きな刺激を与えられることになる。その頃から教会教育に力がそそがれ、「教会学校」と称するようになって行くのである。その日曜学校に勧められて、確か一度は出席している。日曜学校はかなりの生徒が出席していた。みんな元気よく、日曜学校に出席していたようである。そういう雰囲気に入って行くのが気後れし、以後出席することなく、礼拝に出席しては帰って来ていたのである。
 そういう孤独な礼拝出席少年を救済してくれたのが高校生グループの「ぶどうの会」であった。中学2年生になっていたと思うが、高校生会に加入し、交わりの輪に入れていただいたのである。もう一人、やはり中学科に入るのをためらっていた女の子がいた。私と同年齢であり、高校生会は二人の中学生を受け入れてくれたのである。高校生会「ぶどうの会」は日曜学校ではなく、教会の交わりグループである。だから礼拝を中心にしての活動であり、教会の諸活動にも参加し、教会形成を担っているのである。その当時のことについては、この年になって記憶が薄らいでいるのであるが、アルバムを紐解く限り、「ぶどうの会」の野外散策や青年会の修養会に参加している。中学3年生の時には「ぶどうの会」の会計係りを任されることになる。会費を集め、必要に応じて出費する務めは、そんなに難しくなかったので任されたのであろう。それは「ぶどうの会」のメンバーとしての位置づけを与えられていることになり、高校生会が孤独な中学生を励ます意味があったのであろう。また、姉である美喜子さんの弟さん、清子さんの弟さんと言うことで、かわいがってくれたのであろう。私が清水ヶ丘教会に結びついて行くのは、「ぶどうの会」や青年会の皆さんによって育てられたということである。その交わりグループとの出会いがなかったら、今の私はなかったとも思っている。


清水ヶ丘教会青年会修養会。茅ヶ崎にて。1952年、中学1年生の時。
左側二列目の学生帽に白いカバーを付けている子供。
前列の左端は倉持芳雄牧師。



青年会の野外散策。六国峠へ。1954年、中学3年生の時。
立ってお話する青年の向こう側にいる白いシャツの子供。



清水ヶ丘教会における交わりグループが私を育ててくれたのであるが、教会の皆さんが一人の存在を見つめ、声をかけ、存在を受け止めてくれること、これほど教会における自分の存在を示されることはないのである。美喜子さんの弟さん、清子さんの弟さんは、いつのまにか「のぶちゃん」と呼ばれるようになり、今でもその呼称で声をかけられている。主にある兄弟姉妹が教会の原点であったのである。それは倉持芳雄牧師の牧会姿勢である。礼拝が終わり、玄関で皆さんを送り出す倉持牧師とお話するのは至難の業であった。玄関にいる倉持牧師は右手でAさんと握手しており、左手はBさんと握手している。顔はCさんに向けられており、言葉はDさんにかけており、目はEさんに向けてほほ笑んでいるし、後ろにいるFさんにも気を留めている。そういう倉持芳雄牧師の姿勢が、教会に集う喜びを与え、兄弟姉妹の交わりが深められていくのである。交わりを積み重ねつつ教会形成が導かれていたと示されている。