鈴木伸治の徒然記

永年の牧師、園長を隠退し、思い出と共に現況を綴ります

隠退牧師の徒然記 <124>

隠退牧師の徒然記(2011年6月1日〜)<124>
2012年7月18日 「心のあるところ」

 

聖書の言葉
あなたは地上に富を積んではならない。そこでは、虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍びこんで盗み出したりする。富は、天に積みなさい。そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むこともない。あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。
(マタイによる福音書6章19-21節)



 私が洗面所に行こうとすると、連れ合いのスミさんが、「アノコがいるから足元を見ながら歩いて」と言う。少し前に洗濯機のそばにいたという。気を付けながら洗面所に行くと、「いた、いた」、洗面台の下の方にじっとへばりついて動かない。「ここにいるよ」と言うと、スミさんがやって来て「あんた、こんなところにいたの」と声をかけている。何のことはない、アノコとは蜘蛛のことである。それも種類は「アシダカグモ」である。しばらく前から見かけるようになり、どこかにへばりついている。二ついることは確かである。一つはかなり大きく、足を広げている姿は7、8cmある。これがトイレにいたので、来ていた我が家の子供達が大騒ぎし、トイレには入れなかった。トイレは二階にもあるので、もっぱらそちらを使うことになる。「この子たちは、うちで飼っているんだから」とスミさん。それからもう一ついる。こちらは足を広げた姿は5、6cmくらいである。最近はこちらをよく見かけ、ダイチャンの方は見かけない。子供たちが来て、きゃあきゃあ騒いだので人間の姿の前には現れなくなったのかもしれない。アノコと、ここでは称しているが、実はダイチャンに対しての名前を与えているのであるが、差しさわりがあるので、ここではアノコにしておく。
 先日も夕食をしているとき、ふと足元を見ると、そこにアノコがいるではないか。じっとしていて動かない。もちろん、食べるわけもないが、近くに野菜をおいてあげると気配を感じて移動する。何を食べるのか。あの大きなゴキブリを捕まえるということである。アシダカグモが数匹いる家はゴキブリがいなくなるとか。いつも、じっとして動かないが、あの長い足は、それはそれは早く走るようだ。すばしこいゴキブリを捕まえるのであるから。人間の見ていないときに、さっと移動するのであろう。先ほどいたと思う場所から、いつの間にか別の部屋にいたりする。多くの場合、台所や洗面所付近に待機しているようだ。そういえば、先日ゴキブリを見かけたが、ダイチャンやアノコが徘徊するようになってからは、ゴキブリなるものを見かけなくなった。ゴキブリが恐れてこの家から出て行ってしまったのであろう。
 私は二階の書斎にいるのであるが、一階のリビングにいるスミさんが誰かと話しているようだ。電話の話ではなく、声をかけているのである。じっと動かないアノコに話しかけているのである。だからアノコを見かけないと、しきりと居場所を探している。見かけないと何となくさびしいのである。そして、見かけるや、「こんなところにいたの」なんて言うのである。こんな生活であるので、私も部屋を歩くときは足元に気をつけながら歩いているし、台所や洗面所に行けば、アノコを捜しているのである。




食卓のテーブルの下で、じっとしているアノコ。



 宮城県の陸前古川教会時代は猫を飼っていたし、大塚平安教会時代は犬を飼っていた。そして六浦に住むようになって、綾瀬にいるときからであるがリスを飼うようになった。昨年までリスと共に生活し、いつも声をかけていたのである。リスが死んで、その後は生き物を飼うことはしない生活になっているが、侵入してきたアシダカグモがいつの間にか我が家の一員になっているようである。何も世話をしなくても、ただじっと壁にへばりついているので、老夫婦には格好の家族の一員と言うわけである。「今日は、どこにいるのか、見かけないねえ」と言いながら、あちこちと視線を放っているのである。人間に懐くペットの犬や猫は、まさに家族の一員であるが、同じ屋根の下に居るだけでも家族の一員なのである。そうなるとゴキブリも家族の一員であるが、こちらは誰かさんが追い出してしまった。綾瀬に居るときはネズミの出没に閉口しており、家族の一員とは思わなかったが、全く居ないのもさびしいものである。