鈴木伸治の徒然記

永年の牧師、園長を隠退し、思い出と共に現況を綴ります

隠退牧師の徒然記 <121>


隠退牧師の徒然記(2011年6月1日〜)<121>
2012年7月9日 「あなたがたによろしく」
 

聖書の言葉
プリスカとアキラに、そしてオネシフォロの家の人々によろしく伝えてください。エラストはコリントにとどまりました。トロフィモは病気なのでミレトスに残してきました。冬になる前にぜひ来てください。エウブロ、プデンス、リノス、クラウディア、およびすべての兄弟があなたによろしくと言っています。主があなたの霊と共にいてくださるように。恵みがあなたがたと共にあるように。
(テモテへの手紙<二>4章19-22節)



 昨日の7月8日は横須賀上町教会の礼拝説教を担当し、聖餐式を司る。毎月第二日曜に赴くことになっている。3月までは代務者をおいての歩みであり、毎月第一日曜日に礼拝を担当する職務を与えられていたが、教会学校の礼拝におけるお話も担当していた。そのため、朝8時40分ころには出掛けていたが、4月からは専任の牧者を招聘しているので、教会学校の御用がなくなる。だから朝9時40分頃に家を出ることになる。専任の牧者を招聘したが、伝道師なので聖礼典を執行できない。そのため、第二日曜日に行われる聖餐式を司るために、礼拝説教を担当するのである。7月8日の礼拝は12名の出席者であるが、礼拝をささげ、聖餐式のお恵みをいただいたのである。この日、「横須賀上町教会」(100年のあゆみ)誌を贈呈された。かねて準備されていたようであるが、この度の発行となったのである。
 横須賀上町教会が、いわゆる教会史を作成しようと準備を始めたのは2003、4年頃ということである。しかし、編集に携わった教会員の召天、諸般の事情が重なり発行には至らなかったのである。2010年10月に湯河原教会の金子信一牧師が横須賀上町教会の代務者に就任することにより、既に教会史の原稿が集められているので、とにかく発行することに力を注ぎ、2012年春の発行となったのである。A4版75頁の小冊子であるが、歴史を導く神様の恵みの記録が記されている。一年半、代務者を務めた金子信一牧師の大きな働きであると思っている。そもそも金子信一牧師はこの横須賀上町教会と深い関わりがあることを、金子牧師も知ることとなり、驚きと共に神様の御導きを示されたと記している。金子信一牧師が横須賀上町教会設立当初の書類を調べているとき、1950年(昭和25年)と1952年に申請された書類の筆跡を見つめることになる。その時、宗教法人横須賀上町教会設立認可申請書は目白教会の篠原金蔵牧師が代務者となって申請しているのであるが、申請書の筆跡はまぎれもなく金子信一牧師の父上である金子益雄牧師であったのである。「この書類の作成者は筆跡鑑定をするまでもなく、間違いなく父金子益雄である」と金子信一牧師は巻頭言に記している。
 私は2010年10月から月一回、礼拝のお手伝いをしているが、横須賀上町教会の歴史については知識を得ないまま今日に至っていることになる。メソジスト教会の流れの中にある教会であることくらいの知識であったのである。少し歴史に触れておこう。1897年(明治30年)、横須賀市中里町にて日本福音教会年会により伝道が開始される。
日本福音教会は、1807年に米国でヤコブ・アルブレヒト(en:Jacob Albright)によって組織された福音教会の宣教師たちによって1877年11月に来日。元来はペンシルベニアのドイツ人の間で始まったグループで、ルーテル派の影響もあるがメソヂストの制度を取り入れ監督制度であり、大体メソヂスト教会と信仰内容は同じである。よって独逸メソヂスト教会とも言われた。信仰背景としてはルーテル派の敬虔主義の流れにある。日本基督教団加入に当たっては日本組合基督教会系の第3部に編入された。以上はネットの引用である。
福音教会は同胞教会と合同して福音同胞教会になるが、わたしの出身である清水ヶ丘教会はその福音同胞教会の流れの中に設立された教会である。清水ヶ丘教会の宣教に関わったメーヤ宣教師が福音同胞教会の宣教師であり、歴史において横須賀上町教会もメーヤ宣教師の宣教の中に置かれたのであろう。そのメーヤ宣教師に、私自身の若いときに出会っているし、日本聖書神学校を育成されたメーヤ宣教師の息のかかった日本聖書神学校で学んだことも、深い結びつきになるのである。こうして歴史をたどると私自身が横須賀上町教会と深い関わりがあることを示され、月に一度であるが、礼拝と聖餐式をつかさどることは神様の深い御導きであると示されているのである。
この度、「横須賀上町教会」(100年のあゆみ)を出版されたことを、心らからお祝いしたい。



出版された「横須賀上町教会」(100年のあゆみ)



100年の歴史を記しつつ。