鈴木伸治の徒然記

永年の牧師、園長を隠退し、思い出と共に現況を綴ります

隠退牧師の徒然記 <98>

 

隠退牧師の徒然記(2011年6月1日〜)<98>
2012年5月16日 「新たに生まれなければ」 


聖書の言葉
エスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」。ニコデモは言った。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか」。イエスはお応えになった。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である」。
ヨハネによる福音書3章3-6節)


 
 5月10日は私の73回目の誕生日であり、数人の方々からお祝いのカードをいただく。中にはハンカチを贈ってくださる方がおられた。私の好みの一つがハンカチ集めであることを御存知だからである。私は生まれながらに右目の涙腺が故障しており、常に涙を拭いていなければならない。そのためいつの間にかハンカチ売り場に足が向いてしまう。だいたい似たような柄で、だいたいグレー系であるので、引き出しの中は特色も無くしまわれているのである。人が見ればそのように思うのであるが、同じような柄でも、それぞれ思い出が込められているのである。だから、今回も贈られたハンカチも、グレー系であり、私の好みを良く知っておられるのである。ありがたくいただいたのであった。
 誕生日カードは大塚平安教会在任中には、常に皆さんに差し上げていたので、懐かしく思い出される。赴任した当初は婦人会が誕生日カードを担当していた。1981年には婦人会の活動として位置付けるようになっている。しかし、2000年頃は婦人会ではなく、教会から送られるようになっている。それまでは既製の誕生日カードが使われていたが、教会からお送りするようになったとき、既製品に教会の印を押して送るのではなく、教会特性の誕生日カードを作るようになったのである。毎年、教会員の人数分だけ印刷しておき、担当者が毎月の誕生者の誕生日を記入して牧師に渡す。それを水曜集会の出席者がサインしたり、お祝いのコメントを入れたりする。結局、発送するのは牧師になり、誕生日に間に合うように発送するのである。忙しさのあまり、うっかり誕生日を過ぎてから発送したりもする。そのときは遅くなってしまったお詫びを書き加えるのである。
 横浜本牧教会には代務者として半年であったが、皆さんからの誕生日カードをいただく。大勢の皆さんがサインをしてくださっているが、お名前を見ながら、それぞれの出会いを示されるのであった。こちらの教会も婦人会が誕生日カードを用意され、礼拝に出席された皆さんのサインをいただき、発送してくれるのである。依頼されて、カードには聖句を書き入れる務めを与えられたことも懐かしい思い出となっている。




大塚平安教会における2010年の誕生日カード。



 教会から離れている方に、牧師としては手紙を差し上げるが、皆さんのサイン入りでハガキを送るのは、本人としても良い印象を持たない。しかし、誕生日カードであれば、教会から離れていることで、復帰の励ましではない。教会から離れていても、皆さんが自分の存在を覚えていてくれている、そのような喜びを持つのである。そのような方の中には久しぶりにお礼状をくださる方もある。しかしまた、教会から離れて久しいのに、相変わらず誕生日カードが送られてくるので、もう忘れてほしいと連絡される方もおられた。
 誕生日カードを送らない教会もある。週報であればその週の誕生者を紹介し、月報であればその月の誕生者を報告する。しかし、紹介だけであり、皆さんがこれらの人をお祈りし、またはカードを差し上げてもらいたいとのことなのである。教会員としてのお交わりが深められる。しかし、誕生日カードも牧会なのであり、教会の業として行われなければならないのである。それなら洗礼記念日のお祝いを差し上げるべきである。しかし、教会員の中には家族には黙って洗礼を受けておられる方もいる。カードを差し上げるわけには行かない。そのため、以前、洗礼記念日を迎える皆さんには封書でお手紙を差し上げていた。手紙を書くことに対しては厭わないが、やはり時間を要するので、続けることができなかった。本当は、今は時間の余裕があるので手紙を書きたい、そのように思っているのであるが。