鈴木伸治の徒然記

永年の牧師、園長を隠退し、思い出と共に現況を綴ります

隠退牧師の徒然記 <99>

 

隠退牧師の徒然記(2011年6月1日〜)<99>
2012年5月18日 「大事に育てられ」

 

聖書の言葉
わたしたちは、キリストの使徒として権威を主張することができたのです。しかし、あなたがたの間で幼子のようになりました。ちょうど母親がその子供を大事に育てるように、わたしたちはあなたがたをいとおしく思っていたので、神の福音を伝えるばかりでなく、自分の命さえ喜んで与えたいと願ったほどです。あなたがたはわたしたちにとって愛する者となったからです。
(テサロニケの信徒への手紙<一>2章7-8節)


 
 私の誕生日が5月10日であることについては、既に記しているが、毎年のことながら、この日は「母の日」に重なることがある。10日が日曜日になった場合である。重ならなくても、我が家では父の誕生日と「母の日」のお祝いは共に行うのであった。父と母をお祝いするのであるから、子供たちにとっても喜ばしいことなのである。今年も5月12日には子供達が集まり、お祝いをしてくれる。私の姉は誕生日が12月24日であり、クリスマスのお祝いと一緒になることについて、姉は不満を述べていたわけではないが、なんとなく誕生日祝いが薄れてしまう、とポツンと言ったことが印象に残っている。さらに、我が家では羊子の誕生日が12月21日、星子は12月9日であり、やはりクリスマスと二人の誕生日祝いを一緒にしたこともあり、不満を述べないにしても、一人に集中しないお祝いはつまらないと思っていたと思う。私の場合、「母の日」と一緒に誕生日の祝いをすること、子供たちにとって両親をお祝いするのであるから、「丁度」良いのではないかと思っている。そんなことに思いを馳せながら「母の日」について思いを集中したのである。
 そういえば、青年の頃、母をモデルに絵を描いたことがある。引越しの荷物の中に、若いころの画集があり、ときどき整理しながらも、いくつかを見ては、またダンボールにしまっておくのであった。ブログを書く前にダンボールのいくつかを紐解き、画集なるものを捜したわけである。一つのダンボールの中に眠っていた画集をとりだす。画集の中に、私の母の姿が描かれていた。この絵には日付が記していないが、他の絵に日付が記してあり、1960年頃に描いたものである。私が21歳の青年の頃である。若い頃、絵画に興味を示し、鎌倉に出掛けては大仏等を写生している。二番目の姉・清子の娘、恵子の肖像画も描いているのである。若い頃は絵画に心を向けたが、もともとその素質はないので、その後は描くことがなくなった。それより23歳で神学校に入るので、絵画どころではなかったのだろう。しかし、本当に好きであれば、引き続き描いていたと思う。素質も無ければ、向いてもいない、と今では思っているのである。しかし、絵画鑑賞は喜んでいる。時々、美術館に出掛けることもあり、何よりも昨年はバルセロナでピアノの演奏活動している羊子のもとに連れ合いのスミさん、星子と共に行ったとき、羊子は我々をパリの三大美術館、ルーブル、オルセー、オランジュリー美術館に連れて行ってくれたことは、今でもありがたく思っているし、思い出深い。



21歳頃に描いた母の姿。この頃の母は60歳半ば頃かと。



80代後半、90歳に近い頃の母。


 母をモデルにして描いたとき、母は笑いながらも椅子に座っていた。随分と時間を要したと思うが、母は静かに息子の注文通りに椅子に座ってくれていたのである。この思い出については、初めて皆さんに紹介するのであるが、母に関しては、私を日曜学校(教会学校)に連れて行ったこと、その導きがあって私が牧師になっていくことの経緯等を、いろいろな場でお話している。先日の横須賀上町教会の礼拝説教でもお話したのであるが、連れ合いのスミさんが言うには、随分と簡略化していると指摘する。もう少し丁寧に経緯をお話すべきであったと指摘している。大塚平安教会時代でも、「母の日」の頃や6月の「子どもの日・花の日」の頃になると、母と私の牧師になる経緯を証しするのである。毎年、同じお話であるが、一年に一度、このお話を聞くのが楽しみだと言われる方もある。また、この時期になると、「もう、そろそろですね」と言われる。「そろそろ」というのは私の母をお話することなのである。
 母については、どなたも思い出が深いであろう。母の日にその思いが募るのであるが、私の場合、毎日思い出させられている。最近はヨークマートというスーパーマーケットができているが、その横に交番がある。この交番は昔から存在している。若い頃、この交番に母と共に被害届を出しに来たのである。私がいない昼間のこと、一人の若い男が訪ねて来て、「お兄さん、いますか」と言う。母はお兄さんとは息子かと思い、「伸治なら、今はいません」と答える。すると、若い男は「伸ちゃん、伸ちゃん」と繰り返し言うのである。母は息子の名前を知っている若者に気を許す。もともと息子の名前を言ったのは母であるのだが。結局、母はその若者にいくらかのお金を貸してあげるのである。母は人が良いというか、若者の名前を聞くことなく、息子の友達と言うことで信用したようである。もちろん、そういう友達はいないし、母と共にこの交番に届けに来たのであった。振り込め詐欺が問題になっているが、昔から詐欺師はいたと言うことである。毎日、この交番の前を通るたびに、母と共に交番の中に入ったことが思い出されるのである。時々、お巡りさんが交番の前に立っているので、「お務め、ご苦労さん」などというのであるが、思い出に対して声をかけているのかもしれない。