鈴木伸治の徒然記

永年の牧師、園長を隠退し、思い出と共に現況を綴ります

隠退牧師の徒然記 <70>

 

隠退牧師の徒然記(2011年6月1日〜)<70>
2012年3月12日 「祈りの和が広げられ」 


聖書の言葉
「事実、この都でヘロデとポンテオ・ピラトは、異邦人やイスラエルの民と一緒になって、あなたが油を注がれた聖なる僕イエスに逆らいました。そして、実現するようにと御手と御心によってあらかじめ定められていたことを、すべて行ったのです。主よ、今こそ彼らの脅しに目を留め、あなたの僕たちが、思い切って大胆に御言葉を語ることができるようにしてください。どうか、御手を伸ばし聖なる僕イエスの名によって、病気がいやされ、しるしと不思議な業が行われるようにしてください。」祈りが終わると、一同が集まっていた場所が揺れ動き、皆、聖霊に満たされて、大胆に神の言葉を語りだした。
使徒言行録4章27-31節)



東日本大震災が発生して、昨日の3月11日で一年を経過した。報道はいつも被災地の復興を報じていたが、この日が近づくにつれて、いっそう被災地と被害者、復興状況等を報じていた。3月11日も一日中、大震災と被災者、復興について報じていた。それぞれの報道には胸を痛めつつ示されるのであった。防災無線放送で町の人たちに、最後まで津波襲来と避難を呼び掛けていた「みきさん」と言う町の職員は、まさに大津波が迫っている寸前まで呼びかけており、避難したものの津波に飲み込まれてしまったのである。その避難の呼びかけが残されており、その声を聞きながら、命を張って呼び続けた「みきさん」を称えたのである。大震災に関する様々な悲しい物語を示されるが、この悲しみと苦しみを土台として立ち上がっていただきたい。
 昨年の大震災の時、私は散歩に出かけていた。家から2、3分歩くと市営住宅があり、突然物が壊れる音、人の悲鳴が聞こえ、建物が揺れているのが見えた。立っている場所も揺れ動いているのである。地震だっ、と思う。そして、すぐさま家に引き返す。連れ合いのスミさんが心配しており、今携帯で私に連絡するつもりでいたという。我が家の被害はさほどのことはなかった。積み重ねていた本類が崩れたり、いくつかの物が上から落ちて散乱した程度であった。いち早くテレビのニュースが津波の状況を報じている。しかし、この時間では被害状況が把握できず、とにかく入ってくる被害状況を次々に報じていたのである。そして、次第に深刻な報道となっていく。福島原発の事故も報じられるようになり、地震津波原発事故と言う三重の災難に遭遇したのである。大震災に関してはここで記さなくても、様々な報道があるので割愛することにする。
 地震の体験は宮城の陸前古川教会で牧会していた頃である。1978年6月12日17時14分、宮城県沖地震が発生した。マグニチュード7.4、震度5であり、横浜でも震度4が観測されている。死者28名で、津波の被害はなかったが、ブロック塀の下敷きになっての死亡は18名にもなる。負傷者は1万名余り、建物の全半壊7400戸と記録されている。実はこの地震の少し前にも予震があり、連れ合いのスミさんが子供たちを確認する。上の二人は教会と幼稚園の敷地内にいたが、三番目の百合子が見当たらない。あちらこちら探していたら、教会の隣に人形やおもちゃを売る店があり、そこに入りこんでいたのである。ひどく叱られた百合子は泣きながら私の書斎にやってくる。書斎は幼稚園の二階にあり、十畳もある広い和室であった。彼女はまだ5歳の頃である。しばらく畳の上に寝ころんで泣いていたが、そのまま寝入ってしまった。私は相変わらず書斎の机で執務していたのである。その時、グラグラではなく、ガタガタと激しく縦に揺れた。私は瞬間的に百合子を抱き上げていた。そして急いで階段に向かうときには大きく横揺れが始まっていた。大げさなに言うのではないが、階段が蛇のようにうねっていたのである。それでも手すりにつかまりながら、百合子を抱いて表に出ることができた。もうその時には地震は収まっていた。夕刻でもあり、園児は居なかったが、幼稚園の先生達、そして私の家族は、園庭に大きな楓の木があり、そこに避難していたのである。地震がおさまり、家の中に入る。玄関を入ると応接間であり、そこにアップライトのピアノを置いているが、部屋の中央まで動いていた。幸い転倒はしてなかった。書斎に行ってみると、大きな本棚が倒れていた。この本棚はとても大きなもので横幅6メートルもある。百合子がそこにいたら下敷きになっていた。それを思うと改めて胸をなでおろしたのである。大震災については昨年のブログ、2011年3月11日から18日まで、8回にわたり記している。宮城県沖地震については3月12日の日記で記している。 
 昨年、大震災が起きたとき、4月4日からスペイン・バルセロナでピアノの演奏活動をしている羊子のもとへ、連れ合いのスミさんと二番目の子供の星子と共に出かけることになっていた。すべて手続きを済ませ、旅行の準備をしていたところなのである。災害が発生し、スペイン行きをどうするか、考え込んでしまったのである。日本の困難な状況の中で、果たして旅行などして良いのか、と思案したのであった。しかし、これは旅行ではなく、活躍する羊子を訪問するのであるので、行くことにしたのであった。何か後ろ髪を引かれる思いであった。




バルセロナの学校の講堂を会場にして開かれた復興協力コンサート。



マドリッドの教会で開催された復興協力コンサート。




バルセロナカタルーニャ音楽堂で開催された復興支援コンサートでピアノの演奏をする羊子。



日本の童謡を歌う日本語学校の子供達。



バルセロナには4月4日から5月18日までの45日間の滞在であったが、この訪問は意義あることであったことを示される。羊子は訪問前からも災害による日本の復興コンサートに出演している。私たちの滞在中も三回の復興コンサートに協力出演している。まず4月6日に東北関東大震災被災者救済協力コンサートに出演する。これは学校の講堂を会場にして開かれたが、150人ほどの皆さんが来場し、日本の復興を祈り、協力してくれたのである。このことについてはブログ「スペイン滞在記」2011年4月6日付で記している。同じく5月7日にはマドリッドで復興協力コンサートに出演している。終わりに献金、復興協力金がささげられる。日本の「ふるさと」を歌いながら、回されるお盆に献金をささげるのであった。心に残る献金であった。これについては「スペイン滞在記」5月7日付で記している。そしてフィナーレはバルセロナにあるカタルーニャ音楽堂で開催された復興支援コンサートである。世界的に名の知れた音楽堂である。2000名の皆さんが来場している。羊子はピアノ演奏で拍手喝采をいただくのであるが、日本語学校の子供達が日本の童謡を歌い、温かい拍手が送られていたことが忘れられない。このことに関しては「スペイン滞在記」5月16日付で記している。フィナーレと記したのは、私たちは翌日にはバルセロナを発ち帰国の途についたからである。羊子の復興支援はその後もいろいろなところで協力出演をしている。
後ろ髪をひかれながらのバルセロナ行きであったが、スペインの皆さんが日本のためにお祈りくださっていることを深く示されたのである。3月11日から一ヶ月後の4月11日には「東北関東大震災被災者追悼式」がバルセロナのバラ公園で開催され、そこにも列席することができた。このことに関しては「スペイン滞在記」4月11日付で記している。日本のために外国の皆さんがお祈りしてくださっている。それは世界中の皆さんの祈りであることを示されて日本に帰って来たのである。


バルセロナのバラ公園で行われた被災者追悼式。
2011年4月11日。