鈴木伸治の徒然記

永年の牧師、園長を隠退し、思い出と共に現況を綴ります

隠退牧師の徒然記 <68>

 

隠退牧師の徒然記(2011年6月1日〜)<68>
2012年3月7日 「希望をもって喜び」 


聖書の言葉
愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、前から離れず、兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。怠らず励み、霊に燃えて、主に仕えなさい。希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい。聖なる者たちの貧しさを自分のものとして彼らを助け、旅人をもてなすよう努めなさい。あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。
(ローマの信徒への手紙12章9-15節)



希望をもって喜びつつ歩まれていた方、気仙とみ子さんが、去る3月3日に召天され、葬儀に列席しつつ、改めてお証を示された。大塚平安教会の教会員の小室きよみさんが、まず訃報をメールでご連絡くださった。その時点では葬儀の日程は未定である。その後、同じく大塚平安教会員の氏家精子さんから日程のご連絡を電話でいただく。前夜式は6日午後6時より、告別式は7日の午後1時30分より、気仙とみ子さんが所属する海老名教会で行われるということであった。昨日の6日、前夜式に連れ合いのスミさんと共に参列した。海老名教会には駐車場の余裕がないと判断し、私たちの子供の百合子が海老名の桜並木付近に住んでいるので、車で送迎をしてもらうことにした。桜並木であったが、最近はその桜の木が切り倒されており、その通りは明るくなっていた。桜並木に関してはいずれ記すことにしよう。葬儀の司式はもちろん海老名教会の寺田信一牧師である。気仙とみ子さんのお証を交えた葬儀説教を感銘深くお話されていた。葬儀には大塚平安教会の教会員が10名くらい列席されていたと思う。気仙とみ子さんは大塚平安教会の教会員であったからだ。1975年に永福町教会から大塚平安教会に転入し、1988年に海老名教会に転出されている。13年間、大塚平安教会の教会員としてご奉仕とお交わりを深めながら歩まれる。教会役員、教会学校教師、婦人会会長等を歴任されながら、皆さんと共に信仰の歩みを喜びつつ歩まれたのである。大塚平安教会に就任した私たち家族は、気仙三一先生、とみ子さん御夫妻の温かいお支えをいただきながら歩むようになったのである。



海老名教会で行われた気仙とみ子さんの葬儀。



前任の大塚平安教会に1979年9月に就任した時、気仙とみ子さんは教会役員であった。1979年6月をもって乙幡和雄牧師が辞任することになり、後任牧師を選考するなかで、気仙三一先生とお連れ合いのとみ子さんは、お会いしたこともないのであるが、私とはいろいろと関わりがあることで推薦してくださったようである。後任牧師は複数の候補者があげられていたが、その一人の私を推薦してくださったのであった。一つは神学生時代に曙教会に出席して奉仕していたが、それ以前に気仙先生が曙教会の牧会をされていたのである。おそらく曙教会の皆さんに神学生時代の私の情報を得たのであろう。また、とみ子さんが学生時代に青山教会に出席されておられ、その後、私が伝道師、副牧師として青山教会で務めることになる。何かと私の情報をその二つの教会からお聞きになり、推薦してくださったのである。気仙とみ子さんは1975年3月に永福町教会から大塚平安教会に転入会される。気仙三一先生はその時から大塚平安教会に出席され、何かと協力くださっていたのである。そして、1988年に御自宅に近い海老名教会に転出したのであった。従って、私たち家族は大塚平安教会においては9年間のお交わりである。気仙三一先生はその頃、フェリス女学院中学・高校の校長先生に就任されたので、海老名市の国分寺台にお住まいになられた。その頃は海老名教会は無く、気仙とみ子さんは大塚平安教会に転入されたのである。白鷺教会、曙教会、永福町教会等で牧会されていたので、ご夫妻は私たち牧師家族を何かと心に掛けてくださった。私たち家族を御自宅に招いてくださったり、天城山荘の利用券をくださったり、私たちの子供たちを顧みてくださっていた。家庭集会もご家庭を開放されていた。2009年11月26日に気仙三一先生は86歳で召天された。それから約3年後にとみ子さんが83歳で召天されたのである。お二人で信仰に生きる喜びを力強くお証されながらこの世の生涯を歩まれたと示されている。海老名教会に移られたのは、年を重ねてから近くの教会でお世話になるのではなく、奉仕ができる今のうちに転会して、少しでもご奉仕をしたいということであった。歩いてもすぐ近くの教会を喜ばれながら過ごされていたのである。そして、寺田牧師も説教で触れていたが、牧師家族をこよなく愛し、何かと心を寄せておられたのである。大塚平安教会におられる頃、私達家族がいただいた愛を、海老名教会でも変わらずに差し出されておられたのである。
自宅から車で葬儀に赴いたのであるが、横横道路、大和バイパス、下川井から厚木街道に抜け海老名を目指す車の中で、「これからはこういう形でこの道を行き来することが増えるようだね」と連れ合いのスミさんに語りかけたものである。それと共に自らの終わりを示され、今までもそれとなく整理しているが、人生が終わるということをつくづくと示されたのであった。