鈴木伸治の徒然記

永年の牧師、園長を隠退し、思い出と共に現況を綴ります

隠退牧師の徒然記 <63>

 

隠退牧師の徒然記(2011年6月1日〜)<63>
2012年2月24日 「この書物は」
 

聖書の言葉
あなたは自分が学んで確信したことから離れてはなりません。あなたは、それをだれから学んだかを知っており、また、自分が幼い日から聖書に親しんできたことを知っているからです、この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を、あなたに与えることができます。聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。
(テモテへの手紙<二>3章14-16節)



 2010年3月末に大塚平安教会を退任し、4月からは横浜市金沢区六浦の家に居住するようになった。早いもので間もなく2年を経ようとしている。その4月から横浜本牧教会の代務者を務めたので、引き続きゆっくりする時間がない。そして10月からは無任所教師になったので、時間も十分あることでもあり、いろいろと整理を心がけていた。しかし、無任所教師、隠退教師になっても、結構パソコンに向かう時間が多く、整理することが後回しになっていた。それではいつまで経っても整理ができないので、ここは整理を優先することにし、まず書物の整理を始めることにしたのである。
 引越し以来、未だにダンボールの中に入れたままの本が多くある。引越しをして間もなく、書棚をいくつか購入し、主だった書物だけは並べることができたが、まだまだダンボールの中に眠っている書物が多い。だいたい書棚を並べる場所がそんなには無いのである。それで、その後、押入れの中に入れる本棚があることを知り、四つも購入し、ダンボールに眠っていた書物を並べたのである。しかし、それでもまだ出すことのできない書物がある。どうしたらよいか思案していた時、寝室のベッドの両脇に置くことができる、比較的細みの本棚があることを知り、購入したのである。さらに二階の廊下にも置くことのできる本棚を購入した。いくつかの本棚を並べることができたので、これで整理を始めたのである。押入れの本棚は、収納できるものの、本の背中を見ることができないので、どんな本があるのか忘れてしまう。ここは何としても本の皆さんには日の目を見させてあげたいと、まず押入れの本を並べることにする。そしてダンボールの暗闇で過ごしていた本たちを並べることができたのである。しかし、それでもまだ並べることができない。やむなく再び押入れの本棚に入ってもらう。そして、再びダンボールに入っていてもらうことにしたのである。ダンボール組の本は新潮社の「新日本古典文学全集」で108巻もある。並べる本棚が無いのである。
 だいたいの本の整理を終え、改めて本の背中を見つめ回すのであった。やはり手にしたのであるから、それぞれの本についての思い出があり、本を読むことより、本との関わりの方に思いを深めるのであった。108巻もある「新日本古典文学全集」にしても、毎月配本されるのであるが、実に9年を要している。隠退したら日本の古典文学に親しもう、と若いころに健気な思いを持ちつつ購入したのである。毎月の配本であるから、何とか購入することができたのである。書棚には、分厚い12冊のTHE INTERPRETER’S BIBLEが並んでいる。聖書の注解書であり、解説と黙想を導く書物である。これは神学生の頃に発売されたもので、貧しい神学生は購入することができないのであるが、その頃から交際が始まっていた連れ合いのスミさんが明治学院の購買部を通して買ってくれたのである。1ドル360円もする時代であった。園部不二夫著作集も書棚に並んでいる。園部先生からは神学校で教会史を学んでいる。ローマ帝国時代にキリスト教がローマの国教になり、その後の中世の時代も、教会の制度が確立して行く中で、司教達の活動を講談を語るかの如くお話されていたことが思い出深く残っている。今、ヨーロッパの歴史を読むうちにも、神聖ローマ帝国における法王、枢機卿、司教等の入り乱れた歴史を読むのであるが、園部先生が講談のようにお話されたことが、まさに真実であると示されているのである。




神学生の時に揃えたインタープリターズバイブル。


 書棚の本の背を見ながら、よくもこんなに本を購入したと思う。貧しい時代の神学生の頃から、少しでもお金の余裕があると神学書を購入していた。牧師となり、結婚して家族と共に過ごすようになれば、生活費が主であり、本の購入はままならぬ現実である。それでも少しずつ蔵書が増えていくのは、やはり連れ合いのスミさんの協力があってのことである。ネットの時代と言われても、神学書の世界はネットでは追いつかないのである。
 本の背中を見つめているうちにも、残念ないくつかのことに気がつく。それは全集本のいくつかが欠落していることである。折口信夫全集は全31巻であるが、そのうち第30巻が不明である。ドストエフスキー全集は全27巻であるが、第23巻が不明、三木清全集は全19巻であるが、第13巻が不明となっている。その他の全集本は全巻揃っているようである。これらの不明本はどなたかが借りるつもりで持って行ったのであろう。返すのを忘れているということである。実際、ドストエフスキー全集の二冊を、たまたま家庭集会で伺った家の書棚で発見する。数年前に読みたいと言われて持って行かれたのであるが、そのままになっていた。だからその方の家庭集会の日に、失礼ながら書棚を拝見させていただいたのである。「すいません、いつまでもお借りして」と言われたものである。全集本は一冊でも抜けていると価値がなくなる。売るつもりはないが揃っている全集として遺したいのである。それからは全集本については求められてもお貸ししないことにしている。



ベッドの両サイドに細身の書棚を置く。



書斎に置いている書棚。



二階の廊下に置いた書棚。文庫本、新書本等小型の書物を並べている。


 本の整理により、紛失している本を知ることになり、迷子の小羊を探しに、神田の古本屋街に出かけようと思っている。また、本の整理により、日の目を見た本との再会を楽しむことができる日々となった。一冊との出会いはそれぞれ楽しい、意味ある出会いがあるからである。