鈴木伸治の徒然記

永年の牧師、園長を隠退し、思い出と共に現況を綴ります

隠退牧師の徒然記 <54>

 

隠退牧師の徒然記(2011年6月1日〜)<54>
2012年2月4日 「真の平安」
 

聖書の言葉
さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、霊に導かれて荒れ野に行かれた。そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ」。イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある」。
(マタイによる福音書4章1-4節)



今日は2月4日、立春である。春になったと言う思いは、日本ばかりではなく世界が寒波に見舞われており、まだまだ春は先のようである。来週にもまた寒波襲来で豪雪予報が出されている。ローマではコロッセウム(古代の円形劇場)の見学が中止されたとか。雪や凍結があり、滑るので危険であるからだ。世界が寒波に見舞われていることは、世相を物語っているようでもある。まさに世界は冬の時代であり、経済の上昇が求められている。日本の電気メーカーが巨額の赤字であること、その他の産業も不振であり、いずれも災害が原因とされている。タイの洪水、日本の大震災等が経済成長に立ちはだかっているのである。
昨日は節分であり各地で豆まきが行われた。大きな神社では多くの人々が幸福の豆を受け取りに出かけたのである。災害、不景気等は鬼であり、それらの鬼を追い出して、福を呼び込みたいとの素朴な思いなのである。今まで豆まきの現場に行ったことがない。当然なのであるが、一度豆まきのイベントを見てみたいと思っていた。その現場を昨日の散歩のついでに見ることになる。金沢八景駅の近くにある瀬戸神社の前を通る時、豆まきは3日の午後3時から六回にわたり行うことが掲示してあった。だいたいいつもの散歩の時間であるので、これは一つ、その状況を見なければと心を躍らせて出かけたのである。午後3時に出かけ、追浜、天神橋、野島を通って瀬戸神社に着くのは4時の少し前である。追浜には雷神社があるが、既に豆まきは終了したとの張り紙があった。ここの豆まきも見たかったのであるが、時間を確認していなかったからである。
瀬戸神社に着いた時、豆まきは既に何回か行われていたようである。次は4時からと言うことであり、少しの時間待っている。自分ながら、この熱心さに笑ってしまう。いよいよ豆まきが始まった。大きな神社には大勢の人々が参集するのであろうが、50人くらいの人々のようである。豆を蒔く人は有名人でもなく、5、6人の子供たちと大人が2、3人である。「福はうち、福はうち」と言いながら豆を蒔く。しかし、その豆は透明の袋に入れてあり、大豆をそのまま蒔くのではなかった。従って、いくつか入っている豆の袋を拾うのである。良いお土産にもなる。それに豆が地面に散らからないし、なるほどと思ったのであった。それから気がついたことは、「福はうち」と言いつつ蒔いているが、「鬼はそと」の言葉は聞かれなかったということである。テレビの報道による豆まきでは、たしか「鬼はそと」と言いながら蒔いていたと思う。ここではその言葉はなかった。



金沢八景駅近くにある瀬戸神社。節分の豆まきを案内している。



「福はうち、福はうち」と言いつつ豆が蒔かれている。



少しでも「福」を得ようと、「ここに投げて」と叫んでいる。



いろいろな願い事が書かれている絵馬。



鬼は外に追い出されてどこに行くのか、と言うことなのであろう。ここにいる皆さんの中にいる鬼は外に出て言っても、別の人にその鬼が入り込んだら、申し訳ない。だから、自分の中にある鬼以上に福で満たされればよいのである、と理解したのであるが。そのような素朴な理解は聖書にも記されている。一人の人が悪霊に取りつかれている。暴れたり、叫んだりしている。そこにイエス様がやって来て、悪霊にこの人から出て行けと命じるのである。悪霊はこの人から出て行くが、豚の中に入らせてくれと言う。イエス様はそれを許す。するとそこにいた2千匹の豚が湖の中に飛び込んでしまったのである。一人の人が悪霊から解放された。すると人々はイエス様にこの地方から出て行ってもらいたいと申し入れる。これ以上、豚が犠牲になっては困るからである。イエス様は一人の存在を大切にするあまり、豚を犠牲にしたのである。しかし、人々にとっては一人の人間の回復より、豚の方が大切なのである。(マルコによる福音書5章1節以下)。一人の存在を大切にするより、文化の発展こそ大切であると考えるのは、現代でも言えることである。
「福はうち、鬼はそと」と平安を呼び込むのであるが、真の平安は、どのような状況になろうとも、現実は神の国を生きているという信仰なのである。「神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます」(第一コリントの信徒への手紙10章13節)とパウロは示している。