鈴木伸治の徒然記

永年の牧師、園長を隠退し、思い出と共に現況を綴ります

隠退牧師の徒然記 <47>

 

隠退牧師の徒然記(2011年6月1日〜)<47>
2012年1月18日 「心を躍らせて」 


聖書の言葉
今の時代を何にたとえたらよいか。広場に座って、ほかの者にこう呼びかけている子どもたちに似ている。「笛を吹いたのに、踊ってくれなかった。葬式の歌をうたったのに、悲しんでくれなかった」。ヨハネが来て、食べも飲みもしないでいると、「あれは悪霊に取りつかれている」と言い、人の子が来て、飲み食いすると、「見ろ、大食漢で大酒のみだ。徴税人や罪人の仲間だ」と言う。しかし、知恵の正しさは、その働きによって証明される。
(マタイによる福音書11章16-19節)



 毎日散歩していると、いくつかの公園を横眼で見ながら歩く。公園では結構子どもたちが遊んでいる。公園デビューという言葉があるが、乳幼児連れのお母さん達はこの時間にはいない。夕刻でもあるし、むしろ子どもたちが遊びに来ない昼間の時間帯に来るのであろう。だいたい夕刻の時間帯は子どもたちが飛び回っているので、乳幼児連れは危険なのである。多くの場合、子ども達はサッカーをしている。他の子は公園の遊具を楽しんでいるくらいである。お正月の三が日には親子で凧あげをしているのを見たが、今は見かけない。昔ながらの羽根つき、独楽回しのような遊びはしていない。一体、今の子ども達は何をして遊んでいるのであろうか。公園で遊ばない子ども達は家の中で画面を見ながらゲームをして遊んでいるのであろうか。独楽回し、羽根つき、凧あげは古典的な遊びになっており、今の子ども達には魅力がないのであろうか。大人たちがこれらの遊びを奨励しないことも原因ではないかと思う。
ドレーパー記念幼稚園在任中は、この時期になると「お正月遊び」を先生たちが指導し、皆で楽しく遊んでいた。まず園長が独楽回しの見本を見せるのであるが、普段は全くしないので、最初はうまく回らないのである。大独楽、中独楽、小独楽があり、大独楽を回して見せたのであるが、回るどころか、ころころと転がって行ってしまう。園児達も大笑いである。園長の面目もあり、今度は中独楽を回す。見事に回り、子ども達の拍手喝采を浴びる。独楽を回す紐の結び方、回し方などを教えてあげるのである。羽根つきは先生達も得意であり、羽根のつき方等を教えてあげるのであった。それからは、子ども達は登園するやホールに行き、独楽回しや羽根つきを楽しむのであった。私も一緒になって独楽回しをする。大独楽を回して見せたりすると、子ども達は目を見張って見ている。実は夜になって、先生たちが帰ったあとで大独楽の練習をしていたのである。練習の甲斐があって回せるようになったというわけ。
この時期はカルタ遊びも楽しむ。幼稚園には大カルタがあり、皆で興ずることができるのであった。昔、クラスで「福笑い」をしているので、楽しい遊びであるが、この遊びはしないようにした。目隠しをして、顔の絵の中に目、鼻、口等を置いて行くのである。おかしな顔になるので大笑いとなるわけである。二つの問題点があると思った。一つは盲人を真似ての遊びであること、もう一つは出来あがった顔を笑うと言うことである。人間の顔を笑いかねないという問題点もあるからだ。これらの関連からも「スイカ割り」もしないことにしていた。



園長が独楽の回し方を教える。園長も久しぶりに回すので
なかなかむずかしいようである。



子ども達も独楽回しを楽しむようになる。



こちらは大カルタで遊ぶ。手ばかりでなく、足も使ってのカルタ取りである。



子どもの遊びについては、思い出す限り、結構いろいろな遊びがある。鬼に関係する遊びが多く、鬼ごっこ、かくれんぼ、かげふみ鬼等で遊んだものである。「だるまさんが転んだ」という遊びも楽しい。子ども達は登園するや、外は寒いのであるが、鬼ごっこ等で園庭をかけずり回っているのである。やはり指導者がいることで、昔ながらの素朴な遊びを楽しむことができるのである。公園で子どもたちがこれらの遊びをしないということは、学校でもしてないのかもしれない。学校で遊んでいれば、公園でも遊ぶのではないかと思う。サッカーも楽しいが、日本の伝統的な遊びを楽しんでもらいたいものである。
YMCAと言えば、昔は楽しく遊ばせてくれる組織であった。青少年の育成ということで、いろいろな遊び方を提示してくれたものである。しかし、今は教育や福祉に関わり、遊びから離れてしまっているようである。その点、教会では楽しい遊びをいつも提供しているように思う。その姿勢は昔から続いているというわけで、私が中学、高校生の頃、教会により遊び方を覚えたのである。いつも遊びの指導をしながら過ごしたので、牧師になって青少年と過ごす時にも、いつも遊びの指導をすることができた。忘れられない思い出は、神学生時代、学校の修養会があり、神学生や教授も一緒に寝泊まりした。その時、交わりの司会を私が担当した。ボーイスカウト指導者講習会に出席した時、そこで覚えたマオリ族の踊りを修養会で教えたのである。神学生、教授達も楽しく踊っていたのであるが、その時の岡田五作校長先生も一緒に踊っていたので、その姿がいまだに忘れられないのである。心を一つにして遊ぶこと、交わりが深まり、新しい出会いが導かれるのである。
読書、散歩、これも遊びであろう。一人の世界であるが、心を向け、喜びがあるのだから遊びなのである。最近はハーモニカも復活したし、時には「けん玉」も楽しんでいる。イエス様は子ども達の遊びを示しながら、イエス様の福音をいただくことも遊びなのだと言っている。そう、こんなに楽しい遊びはないということ。